壇ノ浦に沈んだ平知盛が怨霊となって源義経を自害へと追いやった?
鬼滅の戦史59
源義経に壇ノ浦にまで追い詰められた平家一門。それを率いた平知盛(たいらのとももり)も、最後は海の藻屑と消えてしまった。知盛はその恨みを晴らさんと、怨霊となって義経の九州渡海を阻んだといわれる。のちに義経は九州落ちに失敗し、最終的には奥州で自害せざるを得ない羽目に陥ってしまった。それが知盛のせいだといわれることもあるが、本当のことなのだろうか?
猛将かつ人間味あふれる武将・平知盛
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清盛を背後から見つめる知盛『六波羅御所清盛公遊宴之図』/国立国会図書館蔵
平知盛(1152頃〜1185年)とは、平清盛の四男である。長兄・重盛(しげもり)は1179年に薨去(こうきょ/胃潰瘍あるいは腫瘍とも)。次男・基盛(もともり)もすでに亡く、1181年に父・清盛(熱病か)まで亡くなってしまったため、三男の宗盛(むねもり)が一門の棟梁となった。しかし、宗盛は凡庸で臆病とみなされることが多かったようで、軍事面で采配を振るったのは、四男の知盛であった。
「平家にあらずんば人にあらず」と平時忠(ときただ)が語ったような平家の栄華も、今は昔。源義仲(よしなか)によって京の都を追われた後、源義経に急襲されて一ノ谷や屋島からも追い出されてしまった。最後は壇ノ浦に追い詰められた挙句、一門ごと海に沈められてしまう羽目に。彼らを率いた知盛も、海の藻屑と消えた。『平家物語』によれば、乳兄弟として共に育った伊賀平内左衛門家長(いがのへいざえないもんいえなが)共々、2枚の鎧を重ね着した上で、手を取り合って入水したという。享年34であった。
浄瑠璃や歌舞伎の演目として人気を博した『義経千本桜』、そこでは、碇を手にかざして勇ましく入水する姿が演じられているが、それは後世の人たちの知盛に寄せる思いが募って出来上がった虚像だろう。
壇ノ浦での戦いの後、知盛の遺体は門司関(北九州市門司区)に漂着したという。里人が哀れんで、壇ノ浦を見下ろす筆立山に埋葬。しかし、それも近年の水害で流出したため、すぐ西寄りに位置する甲宗(こうそう)八幡宮に移されたようである。
この御仁、一般的には智謀の将あるいは猛将として語られることが多いが、同時に、人間味あふれる人物として描かれることもある。一ノ谷の戦いでのこと、息子の知章が父である自分を逃そうとして敵と戦ったものの討ち取られてしまった。我が子が殺されるのを目の当たりにしながらも、自身は命が惜しくて逃げ延びてしまった。大将軍の地位にあったことを鑑みれば無理のない話と考えられなくもないが、我が身のために息子を死なせてしまったことが悔やまれてならなかった。人目もはばからず「さめざめと泣いた」ことが『平家物語』に記されている。
壇ノ浦の戦いにおいても、運が尽きたと見るや、あっさりと戦うことをやめた。敵兵を斬って死なせれば、その妻子らが悲しむだろうとの思いがあったからである。大長刀(なぎなた)を振り回して敵兵をなで斬りにしていた平教経(のりつね)を見つけた時も、「罪作りなこと」と、使者を送ってやめさせたほどであった。
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壇ノ浦にある「錨を掲げる平知盛」 撮影/藤井勝彦
平家の亡霊が九州渡海中の義経の船を沈めた?
ともあれ、知盛ばかりか、教盛、経盛(つねもり)、資盛(すけもり)、有盛(ありもり)、行盛(ゆきもり)などが次々と入水して、ついに平家は滅亡。安徳天皇までもが、二位尼に抱かれて沈んでしまったのは悲運であった。攻め立ててきた源氏側にとってみれば、討伐軍を率いた源義経こそ最大の功労者であり、かつ英雄として祭り上げられるべき御仁であったろうが、討ち取られた平家側にしてみれば、恨んでも恨みきれないほどの憎っくき人物であったことは間違いない。
その源氏側にとっての英雄も、猜疑心の強い異母兄・頼朝にとっては、好ましい人物とは映らなかったようである。超人的な活躍ぶりを危険視したからだ。頼朝に疎んじられた挙句、追討軍を送り込まれる始末。難を避けて、300騎を率いて九州へと落ち行こうとした。1185年11月のことであった。
しかし、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで出港したものの、暴風のため難破。船は大破して摂津に押し戻され、主従バラバラとなり、義経の周りには、妻の静御前とわずかな郎党だけになってしまった。それが海に沈んだ、平家一門の怨霊の仕業だと、まことしやかに語られることがあるのだ。いの一番に化けて出るとすれば、知盛であろうことは想像に難くない。
その後の義経の末路は、儚いものであった。吉野に逃走したものの、妻は捕らえられてしまう。義経自身は追捕の網を掻い潜って奥州へ向かうことになるも、結局はここで自害。平家を滅亡へと追いやった張本人をついには自害へと追いやったのだから、仇を討ったといえるのかもしれない。
弁慶によって追い払われた知盛の亡霊
この平家一門の怨霊にまつわるお話は、前述の『義経千本桜』や『船弁慶』などでも演じられている。
ここでは、恨み骨髄の知盛ばかりか、安徳天皇やその乳母典侍の局までもを生き返らせて、仇である義経を討ち取ろうとさせている。平家一門あるいは知盛に心を寄せる人にとっての、鎮魂歌である。彼らを生き返らせて、その足跡に色を付けて再現。花を持たせた上で、あらためて葬ろうというのだ。
その両作品の物語を振り返ってみよう。舞台は、摂津大物浦(だいもつのうら)である。そこで商う廻船(かいせん)問屋の渡海屋の主人・銀平が、実は死んだはずの知盛であった。銀平こと知盛が、策を弄して義経を討ち取ろうとするも失敗。その娘・お安に扮した安徳天皇や、女房のお柳こと安徳天皇の乳母典侍の局までもが登場して話を盛り上げている。
結局、義経を葬ることはできなかったが、義経の帝の命を守るとの約束を信じて、知盛が碇を体に巻きつけて海中へと飛び込む。その勇姿が、何とも派手に演じられて、拍手喝采を浴びるのである。
一方、『船弁慶』の方は、少々筋立てが異なる。義経が大物浦から船出するも、武庫山から暴風が吹き荒れて沖合に流されていく。その海上に、西国に滅びし平家一門が姿を現すという設定である。知盛が長刀を手にして現れ、知盛自身が義経を海に沈めんと立ち回るのである。
義経と知盛の亡霊が激しく戦うも決着がつかず、弁慶が経文を唱えて仏の力で悪霊、つまり知盛の亡霊を追い払ったとするのだ。知盛の恨みがそれで消えたのかどうかは定かではないが、自身の手で本懐を果たせず海の藻屑と消え去ってしまったようである。
それからわずか数年後の1189年、義経が奥州平泉に逃げ込んだものの、結局は追い込まれて自害。ここにおいてようやく知盛の霊も、心置きなく鎮まることができたのではないか? そんな気がしてならないのである。