渋沢栄一が作り上げた日本の鉄道発展のシンボル「日本鉄道株式会社」と「東京駅」
渋沢栄一の足跡
日本資本主義の父であり、2024年より新一万円札の顔となる渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマ『青天を衝け』が最終回を迎えた。改めて、現在に生きるわたしたちの経済のなかにどれほどの影響を渋沢栄一が与えたのかを感じさせる内容であった。渋沢が残したもので、わたしたちの生活に中に残るもののひとつとして「東京駅」がある。渋沢は鉄道の発展にも尽力し、日本初の鉄道会社設立や東京駅開業にもかかわったという。
壮麗な姿で日本の中心として、近代化のシンボルとしてそびえる煉瓦づくりの東京駅

大正3年に開業した「東京駅」。渋沢栄一は開業に大きくかかわったという。使用された煉瓦は、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造が製造したもの。栄一の故郷に立つ深谷駅も同じ煉瓦を使用し、栄一を顕彰するため、東京駅を模して建てられたという。
明治元年(1867)、渋沢栄一はヨーロッパを来訪した。パリ万博にを見学するためである。船内では初めて洋食を口にするなど、驚きの連続だった。現地で栄一が強い関心を示したのは、鉄道だったという。
当時、まだ日本には鉄道はなく、陸上では馬を使い、河川、海上では船を使っていた。しかし、それだけでは経済発展が望めない。栄一は物資だけでなく、人々も大量に移動できる鉄道に強い関心を示したのだ。
明治6年(1872)5月7日、品川駅と横浜駅(現:桜木町駅)の間で鉄道の仮営業がはじまり、その後、川崎駅と神奈川駅(現在は廃止)が途中の駅として設けられた。これが、日本の鉄道のはじまりである。

『新橋鉄道舘之図』欧米列強と対抗するため、急ぎ近代化を進めた日本。物資の運搬などインフラ面で重要な役割を担う鉄道の開発は明治となり、すぐにはじめられた。(国立国会図書館蔵)
同年9月12日、鉄道の開通を記念して、新橋駅で鉄道開通の式典が開催され、明治天皇のほか政府関係者、外国大使らを乗せたお召し列車が横浜まで往復運転した。その中には、大蔵省に在籍していた栄一の姿があった。

伊藤博文鉄道開発にとくに熱心だったのは伊藤博文であった。岩倉使節団として欧米の技術を目の当たりにした伊藤は鉄道の発展がどのくらい重要であったか把握し、日本初の鉄道建設を推し進めた。(国立国会図書館蔵)
こうした流れを受けて、明治14年(1881)8月1日、日本鉄道株式会社が設立され、吉井友実が初代社長に就任した。その際、経営陣に名を連ねたのが栄一である。栄一らの尽力もあって、日本初の鉄道会社が設立されたのである。
明治16年(1883)に上野・熊谷間が開業されると、次々と路線は延長され、北は東北の福島、仙台を経て青森まで開通した。中でも、埼玉ではセメントやレンガを生産していたので、大量輸送が可能になった。
明治39年(1906)に鉄道国有法が制定され、日本鉄道は国有化された。大正3年(1914)に東京駅が開業されると、駅舎のレンガは栄一が設立した日本煉瓦製造株式会社製のものが使用された。
大阪紡績会社跡
大阪府大阪市大正区三軒家東2-12