志摩国地頭十三衆に列せられるも地頭連合に攻められ浪々の身となった九鬼嘉隆
海賊衆を水軍組織に昇華させた男 海の戦国大名「九鬼嘉隆」第1回
鉄甲船という当時の常識を超えた軍艦を開発し、無敵の毛利水軍を撃破。戦国一の水軍大将として活躍した、九鬼嘉隆(くきよしたか)の激動の生涯に迫る。

九鬼嘉隆 天文11年(1542)〜慶長5年(1600)。九鬼定隆の三男として波切城で生まれる。九鬼氏の出自は、はっきりとしていない。嘉隆が生まれた頃は戦国時代が大きく変わろうとしていた頃だ。同じ年に徳川家康が誕生している。常安寺蔵
越えることが難しい岬があったり、大小の島が点在し複雑な水路を成している。はたまた潮流が激しかったり、1日のうち何度も風向きが変わってしまう。このような海の難所には、必ずと言ってよいほど、海賊衆が跋扈(ばっこ)したものだ。彼らは水先案内と称して帆別銭(ほべつせん)を徴収したり、難破した船から積荷を掠めたりすることを生業としていた。
戦国時代も終わりに近づいてきた頃、彗星の如く登場した海賊大名・九鬼嘉隆(くきよしたか)が生まれ育った志摩という国も、そんな海の難所を目の前に望む地であった。
九鬼氏の祖については、わかっていない事が多い。嘉隆以前については、史料となる文献がほとんど見当たらないのだ。一説には熊野海賊の頭目で、熊野別当であった湛増(たんぞう)の流れを組んでいた、とも言われている。
確かに九鬼氏の出は、熊野灘に面した紀伊国牟婁郡(むろぐん)九木浦(三重県尾鷲市九鬼町)だと言われている。湛増と直接結びつかなくとも、熊野海賊の一派であった可能性は否定できない。それが南北朝時代の後半に、九鬼隆良(たかよし)が志摩国の波切(三重県志摩市大王町)の地頭であった川面氏の娘と結婚。波切を乗っ取ると付近の豪族を抑え、定住したというのだ。
波切には大王崎という紀伊半島最東端の岬があり、その前の海は熊野灘と遠州灘の分海点となっている。沖合には黒潮が流れていて、東日本と西日本を行き来する船にとっては、必ず通る重要な海域であったのだ。だがここは波が荒く、しかも暗礁が多い難しい海域でもあった。操船を間違えれば暗礁や磯浜に乗り上げてしまうか、黒潮につかまり遥か房総半島沖や三陸沖まで流されてしまう。
そのような海だからこそ、多くの難破船が期待できた。難破船から積荷を掠める行為は「寄船(よりふね)慣習」と呼ばれる海賊行為で、鎌倉幕府の頃から度々禁止令が出されていた。九鬼氏は九木浦にいた頃から寄船慣習を行っていたようだが、大王崎のほうが最適な地であった。それほどの難所だったのだ。
それに加え、波切の港は天然の良港であった。まさしく海賊衆が根拠地とする条件が、すべて揃っていたのである。ただし志摩国は日本一面積が小さな国で、陸上には耕作できる土地がとても少ない。そのような国に当時、十三地頭と呼ばれた国人豪族がひしめいていたのである。それは鳥羽衆、賀茂(かも)衆、小浜衆、千賀衆、国府衆、甲賀衆、安楽島(あらじま)衆、浦衆、安乗(あのり)衆、的矢(まとや)衆、和賀衆、越賀(こしか)衆、そして九鬼衆である。中でも九鬼衆は他所からやって来た新参者だったため、他の豪族たちとの間に軋轢があったようである。
そんな九鬼家に嘉隆が誕生したのは天文11年(1542)であった。波切に最初にやって来た隆良から数えると6代目となる。家督は兄の浄隆が継ぎ、本拠地を少し内陸に入った田城(たしろ)に置いていた。そして嘉隆は、支城となった波切城の城代となっていたのである。
ところが永禄3年(1560)になると、九鬼衆の勢力が大きくなることが気に入らない志摩国の地頭十二衆が、協力して田城に攻めかかった。その戦いの最中、当主であった浄隆(きよたか)が病を得て急逝してしまう。そこで家督は急遽、幼少の嫡男澄隆が継ぐ。
嘉隆は田城の救援に向かったが、間に合わずに城は落ちてしまう。嘉隆は澄隆を助け出し、朝熊山の金剛證寺に駆け込んだ。この時代、ここは伊勢神宮の鬼門を守る寺として大伽藍を誇っていたので、地頭たちもう迂闊に手出しができなかったのである。嘉隆はこの寺に潜みつつ、好機が巡ってくるのをひたすら待つこととした。
同じ年、東海一の弓取りと称された今川義元が大軍を率いて西上。尾張国の小大名に過ぎなかった織田信長を蹂躙(じゅうりん)せんとした。だが桶狭間(田楽狭間)の戦いで、信長が義元を討ち取るという大波乱が起こった。
後に戦国時代の戦い方に大変革をもたらす二人は、永禄3年当時は正反対とも言える境遇にあったのである。

海賊衆が根拠地とするのは、外海からは見えにくい入江が多かった。波や潮流の影響を受けにくいだけでなく、外海を航行する船から自分たちの存在を隠すことができたからだ。(写真は伊豆海賊衆の根拠地・長津呂城跡)