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キスカ島からの転進が決定! 太平洋戦争時に木村昌福提督に委ねられた困難な作戦とは?

太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦  第7回


アッツ島の日本軍が玉砕し、キスカ島に駐留する日本軍の運命も風前の灯火となった。約5000名の守備隊救出に向かったのは、歴戦の日本海軍水雷戦隊であった。  


カイゼル髭がトレードマークの木村昌福少将。開戦時は重巡洋艦「鈴谷」の艦長で、1943年に第3水雷戦隊司令官に着任。ビスマルク海海戦で重傷を負うも、復帰後に第1水雷戦隊司令官となりキスカ島撤退作戦に着手する。

 太平洋戦争初の玉砕の島となったアッツ島の戦いにおいて、日本軍の戦死者は2351人であった。重傷を負い動けずに捕虜となったのはわずか28人である。そんな旺盛な士気を誇る日本軍だが、上層部の考えはあまりに薄情なものであった。

 

 アッツ島に米軍が上陸したわずか6日後の昭和18年(1943)5月18日、陸海軍の関係部局が協議。「アッツ島放棄、キスカ島撤退」という結論が出された。そして21日には正式承認されたのである。

 

 アッツ島が玉砕する10日以上も前に、アッツの守備隊は打ち捨てられることが決まってしまったのだ。さらにキスカ島についても、「なるべく速やかに、潜水艦による逐次撤収に努め、状況により輸送艦、駆逐艦併用のこともあり」と、方針は曖昧であった。

 

 キスカ島は陸軍約2400名、海軍約2800名の将兵が守備に就いている。当時の日本海軍が保有していた潜水艦で、多くの人員が収容できる大型のものでも100名、そうでない型なら40名を収容するのがやっとだ。これでは50隻以上の潜水艦を用意するか、何度も往復させなければならない。

 

米艦艇による厳しい警戒網をかいくぐって潜水艦による撤収を成功させるのは、現実的でない事ぐらい子供にでもわかることだ。要するに方針は決められたが、具対策は何一つ決まっていなかった。

 

 それでもキスカ島撤退作戦は「ケ号作戦」と名付けられた。この名はこの年の2月1日から7日にかけて行われた、ガダルカナル撤退作戦と同じである。捲土重来のケからきているのだ。あくまで撤退ではなく、再起を図るための転進という思いの表れである。

 

 作戦は極秘のうちに進められていたのだが、キスカ島の電信室に詰めていた小野打数重(おのうちかずしげ)はその電信の多さに、何かを感じていた。

 

「電信にたびたび“キスカ”や“ケ号作戦”という言葉が入るようになったのです。“ケ号作戦”という名前は、ガダルカナル撤退作戦で使われていたから、もしかするとキスカ島も撤退方針なのでは、と思いました。しかし島はアメリカ艦隊に囲まれているし、空爆も激しい中、到底無理だと思いました」

 

 と、小野打は当時を振り返る。それでも5月12日から27日までの間、15隻の潜水艦により撤収作戦が行われた。だが27日に「伊7」が米艦隊の包囲をかいくぐり、キスカ島に入港。60名を幌筵島(ぱらむしるとう)まで連れ帰ったのが最後となった。結局、潜水艦で撤収できたのは海軍308名、陸軍58名、軍属506名であった。

 

 6月1110時、新たに第一水雷戦隊司令官を拝命した木村昌福(きむらまさとみ)少将が大湊に到着。その30分後に正式な着任を終えると、15時には軽巡洋艦「阿武隈」にて大湊を出港。幌筵島へと向かった。着任からわずか4時間半後という、とても慌ただしいものであった。

 

 6月14日午前7時30分、「阿武隈」は幌筵島の対岸に浮かぶ占守島(しゅむしゅとう)に到着。直後に第五艦隊旗艦の重巡洋艦「那智」から、木村司令官と先任参謀有近六次中佐に呼び出しがかかった。ふたりがボートで「那智」に出向くと、その長官公室に第五艦隊司令長官の河瀬四郎中将、参謀長大和田昇少将、高塚忠夫大佐が待ち受けていた。挨拶もそこそこに大和田は「キスカ島を放棄し、その守備隊全員を急ぎ撤収させる方針が決まりました。その実施命令が当艦隊に下されたのです」と告げた。

 

 続いて河瀬が「容易ならざる作戦だが、木村君にこれを決行して頂きたい。作戦は一水戦司令官に一任する」と述べた。木村は平静を保ったまま「承知しました」とだけ答えたのである。これには有近が慌てた。全権一任は自由に作戦を組める反面、失敗の責任は司令官一身にかかってしまう。だが木村は、自分に課せられた責任はすべて責任を持つ、そんな男だったのである。

 

 ここで少し木村昌福という提督の横顔を紹介しておきたい。木村は明治24年(1891)、静岡県静岡市で代言人(現在の弁護士)であった近藤壮吉の次男として生まれた。生後すぐに母すずの実家である元鳥取藩士木村家の養子となる。だが引き続き静岡で育ち、海軍兵学校に第41期生として入校。卒業成績(ハンモックナンバー)は、118人中の107番目。海軍は人事においてハンモックナンバーが重視されたのに加え、海軍大学校甲種学生も経ていないため、目立つ存在ではなかった。

 

 海軍省や軍令部に出仕した経験がない艦隊勤務一筋の実戦派提督で、勇猛果敢で豪放磊落(ごうほうらいらく)、つねに沈着冷静という性格は、多くの部下から信頼されかつ慕われていた。

 

 開戦時には重巡「鈴谷」艦長を務めていて、ベンガル湾で通商破壊戦を担っていた。敵の民間輸送船を撃沈する際、木村は乗員を退去させてから沈める人道的配慮を見せている。機銃指揮官が退去した乗員を撃とうとすると「撃っちゃぁいかんぞぉ!」と、艦橋から身を乗り出し制止したほどであった。

 

 まさに百戦錬磨の指揮官は、打ち合わせ後に「阿武隈」に戻ると、有近中佐に告げた。

 

「至急、計画を立ててくれ。連れて行く艦は何にするにしても、俺は先頭艦に乗り黙って立っているので後は貴様に一任する。ただ責任はすべて俺が取るから、けして焦るな。落ち着いて計画を立て、よく訓練してから出かける。霧の季節は2カ月あるのだから」

 

 アッツ島が陥落した今、いつアメリカ軍がキスカ島に上陸するかわからない。しかし作戦が稚拙ならば、失敗することは火を見るより明らかだ。戦場を知り尽くした提督の頭には、多くの戦訓が刻まれていたのである。

潜水母艦から補給を受ける伊号潜水艦。キスカ島の撤退作戦は当初、潜水艦を主体に行われていた。しかし一度に乗艦できる人数があまりに少ないこと、さらにアメリカ側の哨戒が厳しく被害が生じたために断念された。

 

※文中の敬称略。

小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。文中の日付は小野打氏の記憶を元にしているため、記録されているものと差異がある場合もあります。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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