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すべての役者が揃った! 遂にキスカ島撤退作戦の艦隊が出撃す

太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦  第8回


「作戦の成否は霧を利用すること!」撤退作戦の中心人物であった先任参謀の有近六次中佐の脳裏に閃いた−−。日本軍奇跡の作戦と語り継がれる「キスカ島撤退作戦」の幕が切って落とされた。


最新鋭の駆逐艦「島風」。昭和18年(1943)5月に竣工したばかりであった。最新式のレーダーを備えていたので、霧の中の行動となるキスカ島撤退作戦には不可欠の艦であった。写真は終末公試で全力運転中の姿。

 

 撤退作戦の一切を担うこととなった先任参謀の有近六次中佐は、木村昌福少将の「責任はすべて俺が取るから、希望事項があれば申し述べておくように」という言葉を受け、気象専門士官の派遣と駆逐艦を10隻に増強し、そこに最新鋭の「島風」を含むように要望している。「島風」は排水量が2567トンで最高速度が40.9ノット、61センチ5連装魚雷発射管3基を搭載。そして何より最新鋭のレーダーを装備していたのである。

 

 キスカ島には陸軍北海守備隊司令官の峯木十一郎少将率いる約2700名と、海軍第51守備隊司令官の秋山勝三少将率いる約2500名という兵力が駐屯していた。6月20日、キスカ島から潜水艦に乗り陸軍の次席参謀の藤井一美少佐と、海軍の先任参謀の安並正俊中佐が幌筵島(ぱらむしるとう/ほろむしろとう)に到着した。彼らは陸海軍の各司令官から、現地の状況を熟知している参謀として幌筵島に派遣されたのである。

 

 木村と顔を合わせた藤井は、万が一敵艦隊と遭遇した際「陸軍は一兵も撤退を考えず、敵上陸部隊を撃破する。海軍は敵艦隊殲滅に任じてもらいたい」という、峯木からの伝言を告げた。打ち合わせが終了すると、木村は藤井だけを別室に呼んだ。そしてこう告げた。

 

「敵艦隊と遭遇すれば、援護の艦隊主力は全力でこれを撃破する。しかし撤収を主目的とする隊は一隻でもキスカ島に突入させ、ひとりでも多くの陸軍部隊を収容する。この際、海軍部隊は同僚なので遠慮してもらう」

 

 木村の言葉に藤井は深く感動し、戦後になっても忘れることがなかったと語っていた。

 

 同じ日、有近中佐が待ちに待っていた人物も着任した。気象士官の橋本恭一少尉である。九州帝国大学理学部地球物理学科を卒業し、第一期兵科予備学生として海軍に入隊した青年だ。東京で辞令を受ける際に、

 

「貴様はこれから一水戦で霧と戦争をせよ」

 

 と、檄を飛ばされたので、任務は承知している。橋本は着任するとすぐ、「阿武隈」の幕僚室に案内された。そこで有近からキスカ島撤退作戦の概要を聞かされ、こう告げられた。

 

「作戦の成否を握るのは霧の利用、これにかかっている。そのために連続一週間の霧の予報が必要で、それを君に予測してもらう」

 

 こうして有近中佐の指示のもと、準備が進められていった。多くを有近に任せていた木村だったが、ひとつだけ頑なにこだわったのが、艦隊のキスカ湾での滞在時間であった。

 

「湾内作業が1時間で終わらないと、この作戦は必ず失敗する。撤収は1時間を厳守せよ。それを過ぎたら、俺は作業を中止してでも出港命令を下す」

 

 これを可能とするために、木村は携行兵器の放棄を陸軍に申し入れた。天皇陛下から下されたとされる菊の紋章入り三八式歩兵銃は、命より大事なものと陸軍兵士は教え込まれる。強硬な反対意見が出たが、木村は譲らなかった。ガダルカナルでも銃を持っていたために出発が遅れた例があったし、艦内に銃が散在していたら、海戦の際の障害物になる。

 

 結局、北方軍司令官の樋口季一郎中将が、放棄もやむなしと独断で決したため、作戦は計画通りに進められた。後に樋口はこの件を糾弾されるが「人命こそ第一。兵器はまた造れる」と、一蹴している。

 

 こうして準備と訓練を続け、6月28日に作戦の概要が決まる。「7月7日幌筵出港、11日日没後にキスカ突入」である。その頃のキスカ島はどんな様子であったかは、海軍通信隊の小野打数重が語っている。

 

「アッツ島が米軍に奪取されると、キスカ島は完全に孤立しました。補給はすでにストップしていたので、食糧は1カ月分もなく、弾薬はほぼ底をついていました。誰ともなく行李の整理を始めました。もう必要がないと思った軍服や下着類、筆記具、地図などが大量に集まり、ストーブにくべられたのです」

 

 小野打は通信兵だったため、木村少将が救出艦隊司令官に任じられ、極秘裏にキスカ島に突入する「ケ号作戦」が進められていることに気づいていた。しかし他言しないように注意していたのだが、誰ともなくこの計画の噂が広まり、将兵に明るさが戻ってきた。峯木と秋山は相談し、7月4日に陸海軍同時に作戦概要と各部隊の行動概要を発表した。

 

 気象士官の橋本の霧予測が出撃決定の最終判断とされていた。その結果、突入日は11日が適と判断され、艦隊は予定通り7日に幌筵島を出港すると決断された。その日の木村の日記には、短く「七日一九三〇出撃 予定航路を行く」とある。

 

 キスカ守備隊は慌ただしく準備を始めた。アッツ島が玉砕した際に身辺整理はしていたが、それでも家族写真や手紙は捨てられないでいた。それを泣く泣く焼き捨てたのだ。艦隊の突入予定日前日の10日、島の西方で監視活動を行っていた陸軍部隊が撤収を始めた。

 

 海軍部隊はキスカ湾付近に展開していたが、陸軍は高射砲部隊などが遠い山中に配備されていた。そのため突入前日からキスカ湾に近づく計画となっていたのだ。11日の早朝、最後の陸軍部隊から連絡が入った。15時には乗艦地に集合するという。これでキスカ島部隊は、完全に撤収準備を整えたのである。

 

防寒着を着込んだ小野打氏。キスカ島での勤務中の1枚。氏は早くから「ケ号作戦」がキスカ島撤退作戦を指しているのに気づいていた。それだけに、日を追うごとに期待が膨らむ反面、不安も大きくなっていったという。

 

※文中の敬称略。

小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。文中の日付は小野打氏の記憶を元にしているため、記録されているものと差異がある場合もあります。地名は当時の日本軍が名付けたものです。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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