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木村提督は直前で作戦中止を決断、 キスカ島の全将兵は絶望の淵に立たされる

太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦  第9回


悪天候を利用してキスカ島に接近し、将兵を救出する撤退作戦は、急激な天候の回復により実施が困難になった。作戦は中止か? それとも再出撃か?


「阿武隈」は大正時代に多数建造された5500トン型の軽巡洋艦長良型の1隻。就役は大正14年(1925)5月。昭和17年(1942)5月から、北方での作戦に従事。翌年にはキスカ島救出艦隊の旗艦として出撃している。

 キスカ島に向かう艦隊の旗艦「阿武隈」艦橋には、天気図と格闘を続ける気象士官、橋本恭一少尉の姿があった。彼の元には、幌筵(ぱらむしる/ほろむしろ)の第五艦隊司令部付の気象士官が6月10日に出した気象予測が届けられている。それは「10日夕方から霧濃くなり、11日は霧または霧雨、12日は霧少なくなる」というものだ。

 

 だが橋本の予測は違っていた。彼の予測ではキスカ島方面は高気圧が発達し、待機海域も低気圧が通過して気圧が上昇。途中およびキスカ島とも霧は発生しない、と断じた。それを聞いた司令官の木村昌福少将は、キスカ島突入予定日を11日から13日に変更する。

 

 キスカ島の海軍気象班も13日は濃霧が発生する予測を出した。救出艦隊は哨戒機に発見されないように、11日は米軍の航空基地があるアムチトカ島から500海里圏外で遊弋待機した。そして12日に東に針路を取り、キスカ島に向かう。だが「阿武隈」の艦橋に詰めていた橋本は、13日も霧は少ないと予測。

 

 それを受け、木村は13日の突入を14日に延期した。だが13日は濃霧が発生。キスカ島の気象班が出した予測が的中した。しかしこの日、キスカ湾の東海上で米軍の駆逐艦と小型艦艇が、哨戒(しょうかい)していた事が後に判明している。予定通りに突入していたらどうなったかは、まさに「神のみぞ知る」だ。

 

 山中の陣地に展開している陸軍部隊はこの間、キスカ湾まで片道2時間をかけて歩いて来る。行きの行程は希望に溢れているので足は軽いが、「作戦中止」の報を受け帰る道はとても長く感じられた。11日に続き13日も中止と聞かされ、兵士の心に「アッツの二の舞になるのでは」という思いがよぎる。

 

 そして14日は台風が接近し、海上が時化模様となった。だが午後になると風が弱まり霧も出てきた。艦隊は速力を16ノット(時速約29km)に上げキスカ島に向かう。ところが午後8時にキスカ島から「敵、砲撃中」という知らせが入ったため、中止となった。

 

「ス・ス・ス」

 

 15日午前2時、キスカ島電信室は「ス」の三連送を受信した。当番兵が当直下士官に電信紙を渡すと、電信室にいた者たちが一斉にどよめいた。これは「突入す」の暗号だった。

 

「この時をずっと待ちわびていましたから、それは嬉しかったですね。みんなの顔が急に明るくなったのを今も鮮明に覚えています」

 

 この時、当直ではなかったが電信室に居合わせた小野打数重も、歓喜の声を発した一人であった。この日は台風の影響が残り、雨が降り続いていた。霧も出ていたので、誰もが救援艦隊のキスカ湾突入を信じて疑わなかったと、小野打は当時を述懐している。

 

 だが15日午前9時になると、「阿武隈」の艦内は異様な空気に包まれた。艦橋では橋本が作成した午前6時の天気図を前にして、木村を中心に話し合いが続いている。キスカ島周辺の天候は、時間の経過とともに明らかに回復の兆しが見られる、というのだ。

 

 先任参謀の有近六次中佐らは、橋本へ質問する木村を見つめている。その間、僚艦の艦長たちからは、木村司令官に対し「本日突入至当と認む」という信号が送られてくる。だが木村は天気図から目を離さず、艦隊がキスカ湾に到着する予定時刻の15時頃の霧の状態を、静かに橋本に確認した。橋本は答えた。

 

「その時間帯のキスカ島周辺の視界は良好。アムチトカ島の飛行も適です」

 

「先任参謀、帰ろう」

 

 木村の声に一瞬艦橋が静まり返った。ひと呼吸置いて有近が「わかりました。ただ今より幌筵に帰投いたします。艦長、お願いします」と応じた。「阿武隈」艦長が反転を命じる。その時、木村がつぶやいた。

 

「帰れば、また来ることができるからな」

 

「ミ・ミ・ミ」

 

 15日の午後1時15分、キスカ島電信室が受信した「ミ」の連送は「突入不能」の暗号だ。その刹那、電信室は騒然となった。すぐさま幌筵の第五艦隊に問い合わせたが、すでに救援艦隊は反転した後であった。

 

 キスカ島の全将兵が、まさしく奈落の底へ突き落とされた心境となった。小野打も「もうだめだ。我々も玉砕するしかない、と思いました。気持ちの糸が完全に切れてしまったのです」と語る。彼はその後、何もせずに兵舎で寝転がる人や、空襲時に防空壕に入らず標的になる人も見かけたと証言している。

 

 一方、幌筵に帰投した救援艦隊の乗組員も針の筵(むしろ)だった。第五艦隊内には木村に対する不信感が膨れ上がっていたが、直接矢面に立たされたのは先任参謀の有近だった。彼は第五艦隊司令部参謀長の大和田昇少将と、

 

「司令官不信ですか」

 

「いや、司令官は十分に信頼している」

 

「では先任参謀の補佐不十分ということですね。それならば先任参謀を罷免して下さい」

 

「今さらそれはできない」

 

という具合に、激しく言い争っている。

 

 こうした状況を知ってか知らずか、木村はいつもと変わらず泰然自若としていた。作戦はこれで終了したわけではない。上層部の考えなど、大事の前の小事と考えていたのであろうか。間もなく、発表された第二次作戦の態勢により、木村に対する第五艦隊司令部の姿勢が明らかになった。第五艦隊司令長官の河瀬四郎中将が、軽巡洋艦「多摩」で救援隊に同行。キスカ島突入前日の午後10時まで、部隊の指揮を執る、というのだ。

 

 救援部隊に参加する艦長や参謀が集まって行われた幹部会議は紛糾した。これは木村司令官に対する不信感以外の何物でもない。それに霧の有無は前日に判断できない事は、第一次作戦で証明されている。帰投した艦隊への冷たい仕打ち、木村に対する当てつけのような長官同行の決定が、怒りとなったのだ。

 

 だが無言で激論を聞いていた木村が、静かに「わかりました」と言う。それで幹部一同が「木村司令官のために死のう!」という言葉で、すべてを決着させたのであった。

 

キスカ島駐屯の海軍電信員だった小野打は、7月15日の午前2時に受け取った電信と、その約12時間後に受信した電信との内容の違いに、ほとんど絶望感を抱いたという。その日は食事も喉を通らなかったほどだった。

 

※文中の敬称略。

小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。文中の日付は小野打氏の記憶を元にしているため、記録されているものと差異がある場合もあります。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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