明治の新しい経済界を構築した渋沢栄一が眠る「谷中霊園」
渋沢栄一の足跡
明治という新時代の幕開けとともに、日本の新しい経済界を構築したといっても過言ではない渋沢栄一は昭和6年に92歳の長寿をまっとうし病で死去した。その墓所は東京都の谷中霊園にある。家族とともに眠る墓所は都会ながらも緑に囲まれたのどかな場所となっている。
日本の新しい経済界を構築した渋沢栄一は谷中霊園に眠る

渋沢家墓所谷中霊園の乙11号1側にある渋沢家墓所。栄一以外にも宇和島藩主・伊達宗城など新時代の開化に尽力した偉人たちが谷中霊園に眠る。
昭和6年(1931)11月11日、渋沢栄一は病により亡くなった。享年92。11月15日、栄一の葬儀は青山葬儀場で執り行われた。栄一を慕う多くの人々が自然に集まり、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を見送った。
同じ日、栄一とゆかりが深い日本女子大学校(現:日本女子大学)では、弔意を表すべく全校授業を休止したほどである。

日本女子大学学校創立者・成瀬仁蔵が抱く女子教育の熱意に動かされてた栄一は創立委員(会計監督)となり、のちに三代目校長を務めた。
社団法人国際連盟協会は、東京市と共同で主催して「平和記念日と渋沢子爵追憶の夕」を東京朝日新聞社講堂で催し、栄一を追悼した。
今も栄一が眠るのが、東京都立谷中霊園(東京都台東区谷中7丁目)である。園の広さは約10haで約7000基もの墓がある。かつて、栄一が仕えた徳川慶喜の墓も谷中霊園に所在する。多くの有名人もここに眠っている。
明治元年(1868)に明治新政府が誕生すると、政府は神仏分離政策を積極的に推し進めた。そのため、神式の葬儀がどんどん増えていった。
一方、墓地の大半は寺院が所有していたので、埋葬する場所が乏しいという問題が生じていた。政府は、公共の墓地を確保せざるを得なくなったのだ。
その候補地となったのが、感応寺(現:天王寺)の寺域だった。かつて感応寺では富くじが行われており、「江戸の三富」として大いに栄えていた。
明治7年、政府は感応寺の寺域の一部を取り上げ、谷中墓地を造成した。それは、東京府が管轄する公共の墓地だった。谷中霊園に改称されたのは、昭和10年(1935)のことである。
なお、栄一の墓は、谷中霊園の乙11号1側渋沢家墓所にある。
谷中霊園
東京都台東区谷中7丁目5−24