日本列島に人が組織的に住み始めた頃はどんな風景だったのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #041
古来人々はどういう場所に、どういった理由で住み始めたのだろうか? 小さな集落が徐々にまとまって邑国(ゆうこく)へと発展していくのだが、具体的に、本州への入り口の一つ、山口県・土井ヶ浜遺跡を例にとって考えてみたい。豪族発生以前の列島の様子を考察する。
中国山東省に住んだ人たちの特徴と一致する山口県に出土する人骨
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土井ヶ浜遺跡の砂丘墓 撮影柏木宏之
本州の西の端に位置する山口県は特殊な地勢にあるといえるでしょう。日本海、響灘(ひびきなだ/玄界灘)、関門海峡、瀬戸内海に接し、陸路は青森まで続きます。また九州からは狭い海峡を渡るだけという指呼の間で、大陸や朝鮮半島には海を隔てて対面した位置に存在します。
弥生時代の砂丘墓群で、状態の良い完全骨格が約300体発見された遺跡があります。下関市の北西部海岸沿いの「土井ヶ浜遺跡」です。
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土井ヶ浜遺跡石碑 撮影柏木宏之
ここには人類学ミュージアムという施設があり、本州の西の端に住み着いた人たちがどういう人たちだったのか? どんな暮らしをしていたのかを、考古資料をふんだんに展示しながら解説してくれます。
九州北部と山口県は、気象や季節の変化が同一のエリアとされています。
たとえば「梅雨入り、梅雨明け」なども「九州北部と山口県地方は・・・」と気象庁も発表します。こういった地勢は、自然環境に最も大きな影響を受けた古代人の生活には重要な要素です。土井ヶ浜遺跡の弥生集団墓から出土する人骨は、北九州に住んだ人たちとほぼ同じです。
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土井ヶ浜遺骨パネル 撮影柏木宏之
しかも近いはずの朝鮮半島南部の人たちではなく、中国山東省に住んだ人たちの特徴と一致するという
不思議さも特徴です。土井ヶ浜海岸に注ぐ川沿いに土井ヶ浜遺跡・土井ヶ浜南遺跡・片瀬遺跡・森広遺跡と寄り添うように4か所の遺跡があります。
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土井ヶ浜遺跡説明パネル 撮影柏木宏之
このうち、砂丘墓の中心が土井ヶ浜遺跡、若干の集落跡が発掘されているのが土井ヶ浜南遺跡、片瀬遺跡からは水田跡が検出されているそうで、紀元前200年ごろからの弥生遺跡だと推測されています。おそらく弥生時代全期を通じて、このような小さな集落は全国に何百何千とあったでしょう。
そういった小さな集落が徐々にまとまって、邑国へと発展するのです。
山口県は大陸や朝鮮半島とも近く、海流に乗ってストレートに渡来した人たちが住み着いたでしょうし、九州からもやって来て、そこからさらに陸路で日本列島に広がっていった可能性があります。
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人類学ミュージアムのゴホウラ貝モニュメント 撮影柏木宏之
日本列島は山の国だと思われていたようで、九州北部には「山門(やまと)」という地名がありますし、本州側の西の端が「山口」という名称であるのも面白い話ではないでしょうか?
こうした人々の営みが徐々に広がり、やがて大和の地に王権が確立したのです。大和王権は各地の小支配者(=地方豪族)を組織に取り込んで、勢力を急速に拡大していきます。その魅力的なツールが、前方後円墳の築造許可だったと考えられるのです。