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渋沢栄一の“知の源”を育んだ従兄弟の家・尾高惇忠生家

渋沢栄一の足跡


放送中の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一の師としてたびたび登場する尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)。その生家が今も埼玉県深谷市に残る。ドラマの前半では、栄一はこの家に仲間たちと募り、尾高に学問を習う様子が幾度も描かれていた。栄一が「兄ぃ」と慕う尾高は栄一が実業家として活躍することとなっても傍らで支え続けた存在だったという。今回は、栄一が青年期に通い詰めた尾高家を紹介する。


 

渋沢栄一が学問を学びに通った従兄弟の村の名主の家

尾高惇忠生家江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階に残る。市指定史跡。/画像提供 深谷市

 

 深谷市下手計には、尾高惇忠の生家がある。現在の深谷市出身の尾高惇忠(1830~1901)は実業家として活躍し、富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めたことで知られている。

 

 惇忠は、名主の尾高保孝の子として誕生した。惇忠は幼い頃から学問に優れ、17歳頃から自宅に私塾の尾高塾を開いていた。塾には近隣の子供らが集まり、惇忠が漢籍などを用いて学問を教えていたという。

 

 渋沢栄一も、惇忠から教えを受けた一人である。惇忠は『論語』や水戸学に通じており、栄一は特に「知行合一」(知識は人間の感覚・心情・経験・実践(行)を通して、初めて本当の知となるという思想)の思想から多くを学んだという。

 

 栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉は、惇忠の母「やへ」だったので、惇忠と栄一は従兄弟の関係だった。また、栄一の最初の妻は、惇忠の妹・千代で、栄一夫婦の養子として惇忠の弟・平九郎が迎えられた。

 

 尾高惇忠の生家は、惇忠の曽祖父が江戸時代後期に建てたといわれている。埼玉北部の商家建築の趣を色濃く残しており、当時は「油屋」と呼ばれていた。母屋裏の煉瓦倉庫は、明治21年(1888)以降に建築された。

 

 なお、若き頃の惇忠と栄一は、当時日本中を席巻した尊王攘夷思想に心酔し、この家の2階で高崎城乗っ取りを画策した。

 

 平成22年(2010)2月10日、尾高惇忠生家は深谷市指定文化財(史跡)に指定された。栄一の足跡を示す、貴重な史跡である。

 

開業当時の富岡製糸場を描いた『上州富岡製糸場之図』平成26年に世界遺産に登録された富岡製糸場は、明治5(1872)年に明治政府が殖産興業策の一環として開業した官営模範工場。渋沢栄一は創業に尽力し、初代工場長を尾高に依頼している。この絵は、当時の工場内の様子を描いている。国立国会図書館蔵

 

尾高惇忠生家

[概要]

アクセス  埼玉県深谷市下手計236 (JR深谷駅からタクシーで約15)

見学時間  午前9時から午後5

休館日    年末年始 (1229日~13)

入館料  無料

駐車場    有り (大型バス可)

入場制限 30分あたり30名まで

解 説  毎時10分、40分(お昼と16時を除く)に、中庭で行います。ただし、天候により休止となる場合がございます。

問合せ    048-587-1100 渋沢栄一記念館

 

※新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、混雑状況により見学をお待ちいただく場合がございます。安全な公開を行うためですので、ご理解・ご協力をお願いします。

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過去記事

渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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