高知城(高知県高知市)~明治維新の雄藩・土佐藩は、なぜ天守を崩さなかったのか?
名城の鑑賞術 第10回
坂本龍馬ではなく板垣退助、山内一豊ではなく妻・千代の銅像が立つ

明治維新後、建物の多くが撤去された一方、天守と御殿をはじめ、本丸のすべての建物と、追手門が保存された。本丸のすべての建物が保存されるのは高知城のみ。天守の勇壮な姿は、見る者を圧倒する。
土佐藩は、薩摩藩、長州藩、肥前(ひぜん)藩とともに、明治維新の実現に力を尽くし、「薩長土肥」と並び称された。そのうち、江戸時代に創建された天守が今日に伝えられているのは、土佐藩山内氏の高知城だけである。
薩摩藩島津氏は、天守を鹿児島城に築かなかったため、はじめから天守は存在しなかった。肥前藩鍋島氏の佐賀城には、天守が存在したものの、火災で失われたのち、再建されなかった。長州藩毛利氏の萩城には、5層の優美な天守が存在した。だが、明治7年(1874)、老朽化によって解体された。
城の中心に聳(そびえ)え立ち、城主の権威を象徴した天守。さまざまな事情により、その大多数は失われ、現存する天守は、高知城をはじめ、12棟に過ぎない。天守が歩んだ道のりは千差万別であり、明治維新後の歴史を物語っている。
坂本龍馬をはじめ、中岡慎太郎や武市半平太(たけちはんぺいた)ら、郷士出身の志士たちの命をかけた奮闘により、明治維新は達成へと導かれた。ただし、坂本龍馬の銅像が桂浜に建立されたように、彼らの銅像は高知城内には存在しない。高知城の追手門をくぐり、天守へと向かう坂道の登り口には、郷士よりも身分が高い上士出身の板垣退助の銅像が立つ。
大正12年(1923)、銅像が完成した当時は、「明治の元勲」または「自由民権運動の闘士」として、龍馬よりも高い知名度と人気を誇った。
板垣の銅像から天守へと近づくと、一豊の妻千代が馬を引いた銅像が立つ。ただし、夫の一豊の銅像は、追手門より向かって右手に位置し、天守への登城ルートから外れているため、その存在に気付かない観光客も少なくない。落語では、一豊は「山内一豊の妻の夫」と揶揄されているように、夫の一豊よりも、その妻の人気が高いことは、夫婦の銅像の設置場所に示されているようにも思える。
かつて、天守は城下町のシンボルだった。だが、高度経済成長期に入り、高層建築が周囲に乱立することにより、ランドマークとしての価値を失ってしまった天守も少なくない。
高知城の北郭(ほっかく)は、民有地であったため、いったんは、マンションの建設が認可された。発掘調査が行われたのち、建設工事が開始されようとすると、高知城の景観を損なう可能性も指摘されたことから、建設の再考を求める市民運動が繰り広げられた。
その結果、北郭は民間業者から行政に買い取られることにより、遺構と景観は守られた。
小田原市においても、小田原城の天守を見下ろすような立地環境の高層マンションの建設が発表され、市民運動が繰り広げられると、行政による用地の買い取りにより、建設は中止へ導かれた。
その後、高知市では、景観保護条例が制定され、高知城周辺での高層建築の建設には制限が加えられるようになった。
日本各地の名城では、城跡そのものを歴史遺産として維持するだけでなく、周辺の景観や環境も含め、後世へ伝えための努力が続けられている。