伊予松山城(愛媛県松山市)~天守を縮小し重厚な雰囲気を損なう
名城の鑑賞術 第9回
幕府に奪われ、よそ者による占拠、さらには火難続き…の波乱万“城”

松山城の大天守は、重厚ではあるのだが、姫路城や高知城などと比較すると、どことなく、均整が取れていない。それは、寛永19年(1642)、加藤嘉明が創建した天守を5層から3層へ縮小したことに起因する。撮影/外川淳
賤ヶ岳七本槍(しずがたけのしちほんやり)の一人として名高い加藤嘉明(かとうよしあき)は、独特の遊泳術により、戦国の乱世を生きのびることができた。その褒賞として、伊予国内に20万石の領地を与えられ、松山城に五層の天守を築いた。そして、寛永4年(1627)、松山から会津へ栄転となると、会津若松城の増改築に着手。だが、嘉明の死後、加藤家は幕府によって取り潰され、嘉明の作品ともいえる松山城と会津若松城は、親藩大名の松平家がともに城主となった。つまり、加藤家は、自身のために築いた城を二つとも幕府によって奪われたともいえよう。
松平家が松山城主となると、加藤氏時代には五層だった天守の安定がよくなかったため、三層に縮小したとされる。その三層天守も天明4年(1784)、落雷によって焼失。江戸時代中期になると、江戸城のように天守がなくなっても再建されない例も多い。松山城も、天守不在の時期も長かったが、嘉永5年(1852)、天守の再建工事が完成し、現代に伝えられている。
松山城主の松平氏は、徳島城主の蜂須賀氏、高知城主の山内氏、宇和島城主の伊達氏など、四国の外様大名を監視する役割を担っていた。
ところが、慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍として参戦したことから、情勢は一変。城主の松平定昭は、城外の寺院に謹慎して新政府に服属の意思を示したため、戦いは回避されたものの、松山城は、5月まで土佐藩に占拠される状況が続いた。
松山藩士をはじめ、松山の人たちにとり、城と城下がよそ者に占拠されたことは屈辱であり、明治維新という新しい時代の到来を陰鬱な状況で迎えている。
JR松山駅前には、正岡子規の「春や昔 十五万石の 城下かな」の句碑が立つ。慶応2年生まれの子規には、土佐藩兵の松山占拠の記憶がなくとも、明治維新という変革により、ふるさとの松山から、春は去ってしまったという思いを表したのだ。それでも、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』で描かれたように、子規をはじめ、秋山好古(よしふる)陸軍大将や、秋山真之(さねゆき)海軍中将ら、松山の城下からは、多彩な偉人たちが輩出された。
広大な松山城のうち、山麓部の二の丸と三の丸は、明治3年から翌年にかけ、失火により、建物は失われてしまう。また、明治17年には陸軍部隊の駐屯が開始された。その一方、山上の本壇(本丸)は、旧藩士たちの愛媛県庁への請願によって保存への道筋が開かれ、明治7年、公園として市民に解放され、聚楽園と命名された。
昭和8年、西日本一帯で放火を繰り返した凶悪犯により、松山城も魔の手にかかり、小天守などが失われたものの、天守は延焼を免れた。
松山城への火難は続き、7月26日深夜から翌朝にかけての松山大空襲では、天秤櫓などが失われた。昭和24年には、またしても放火により、筒井門などが失われた。
だが、昭和33年に馬具櫓が再建されたのを皮切りにして、復興への努力が開始された。昭和61年には、巽櫓(たつみやぐら)の再建工事が完成し、本壇は往時の姿が復元された。山麓の二の丸御殿も復元され、松山城と城下は、春の賑わいを取り戻したといえよう。