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体験者が語る大坂の陣と真田丸

天守閣学芸員が語る 知られざる大阪城の歴史 第3回

大坂城の惣構(そうがまえ)と真田丸

 

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂近郊の砦をめぐる攻防ののち、大坂城下町を守る「惣構」を防衛ラインとし立て籠もる豊臣方と、それを包囲する徳川方がにらみ合った。両軍が対峙する様子は、後世「配陣図」の形をとってさかんに描かれ、大阪城天守閣もこの種の資料を多数所蔵している。

 

「大坂冬の陣配陣図」(大阪城天守閣蔵)。南惣構の東端には丸馬出状の真田丸、惣構のはるか南方には家康本陣の茶臼山(西側の小山)と秀忠本陣の岡山(東側の小山)が描かれる。江戸時代の軍学の影響を受け、これら配陣図に描かれた大坂城や惣構の形状はデフォルメされている。

 

 冬の陣の一連の戦いの中でも特に著名なのは、城南の真田丸をめぐる攻防だろう。真田幸村(信繁)が敵の大軍を引き受けて活躍する様は多くの人の心をとらえてきたことと思う。

 

 現在の大阪明星学園(大阪市天王寺区)の校地一帯が真田丸の中心部であったとされ、校地東側の道に面して顕彰碑が立っている。宰相山公園や真田山公園を含むこの高台は、南北に谷筋が走り、地形図では上町台地(その北端に大坂城が位置する)の東側へ飛び出したこぶのように見える。台地東麓の道筋を北上して惣構の黒門(現・玉造交差点付近)を突破しようとするとき、左手から攻撃してくる真田丸は脅威となったはずだ。

「大坂三郷町絵図」(大阪城天守閣蔵)の旧真田丸周辺部分。元禄年間(1688~1704)のものとされる本図は、上町台地の縁(へり)にあたる周辺の地形をよくあらわしている。中央やや上方に「真田出丸跡」とあるのが現・大阪明星学園の位置で、そこから道を挟んで東側は現・宰相山公園、その南側に突き出した高台は現・真田山公園のある一帯。

ドキュメント真田丸

 

 さて、上町台地の東麓に布陣し、真田丸攻防戦の一方の当事者となった大部隊が加賀前田勢である。彼らの証言から、この戦いの経過をどのように再現できるだろうか。

 

 藩主前田利光(後の利常)が国許に書き送った書状によれば、12月に入るころから城攻めの拠点となる「付城」の普請を命じられ、前田勢の先手(さきて、先鋒部隊)はその付城のひとつである岡山(現・生野区の御勝山古墳)にいた。岡山の普請が完成すると、将軍徳川秀忠がにわかにここを本陣にさだめ移動してきた。これを受けて前田勢は前方に押し出される格好となり、利光自身は「木ノ(この)村」へ、先手は「小橋(おばせ)山」付近へ陣替えをしたという。

 

 やがて秀忠より、真田丸に隣接する「篠山(ささやま)」(現・宰相山公園のあたりか)を攻略せよとの命令を受け、124日の未明に行動を開始。霧が立ち込めるなか、前田家の先手の大将・山崎閑斎(かんさい)の部隊は南惣構をけん制しつつ篠山に侵攻し、もう一手の大将・本多政重の部隊は現・真田山公園のあたりから高台上にのぼって包囲網を狭めていく。山崎配下の者の述懐によると、別の方向から進んできた本多配下の兵と大きな谷の底でばったり出くわした時、真田丸からの銃撃が始まった。

 

 これ以降、「(占領した)篠山の上へ小屋替え(陣を移動)」するまでの作戦のはずが、南惣構をはさんで豊臣方と対峙していた他藩の軍勢も連動し、意図せず真田丸そのものへの大攻勢となってしまう。徳川方諸藩の兵は真田丸や南惣構からの激しい銃撃にさらされ、多数の死傷者を出した。前田利光はただちに撤退を指示したが、自身の馬験(うまじるし)を持つような上級武将も真田丸にとりついており、それらの救出作業が難航したという。堀の斜面にへばりついたまま進むことも退くこともできなかった者たちは、真田丸の対岸から味方が鉄砲のつるべ撃ち(絶え間ない連射)を始めたのを見て、自分たちの撤退を援護しているのだと気づき、この隙に順次引き上げていった。やっとの思いで撤退した後は、惣構の堀ぎわに竹束(竹を束ねた楯)を立て並べるなど、進出した場所を守ることに専念した。

 

「大坂冬の陣図屏風」(肉筆模写、大阪城天守閣蔵)より南惣構の攻防戦の様子。左上に描かれているのが真田丸。右下では攻城側が竹束を並べている。

記憶のなかの真田丸

 

 冬の陣の和睦交渉の末、徳川方相手に威力を発揮した惣構は破却されてしまった。翌年の夏の陣では、豊臣方が籠城策をとれなくなったこともあり、かつて家康の本陣だった茶臼山を豊臣方の真田幸村が、秀忠の本陣だった岡山をやはり豊臣方の大野治房が確保。両軍の前線はぐっと南に移動した。

 

 上町台地上の天王寺口を家康が、台地東麓の岡山口を秀忠が攻め進むというのは冬の陣と同じで、その秀忠の露払いをつとめるのは前回と同様、前田勢である。そのなかには、去年の戦いで深手を負って歩けないため「乗物」で運ばれて参加した者もいた。岡山周辺での激戦を制したのち、去年あれほど辛酸をなめた南惣構の跡地は難なく通過し、城の中心部を目指してなだれ込む。大坂城本丸の周囲を歩き回って進入路を探すうち、本丸内に火の手が上がるのが見えたという。

 

 戦の終結後、夏の陣での自身の進軍ルートを申告した加賀藩士たちの何人かは、経由地として「真田丸」をあげている。ようやく真田丸の向こうへ進むことができた、と感慨ひとしおだったのかもしれない。

 

 

※上に図版を掲載した「大坂冬の陣配陣図」「大坂三郷町絵図」「大坂冬の陣図屏風(肉筆模写)」をはじめ、大坂冬の陣や夏の陣の様子を描いた資料は図録『描かれた大坂城・写された大阪城』で紹介されています。また図録『真田幸村の生涯を彩った人たち』でも、幸村ら戦国の群像にかかわるさまざまな資料が紹介されています。

 

『描かれた大坂城・写された大阪城』


『真田幸村の生涯を彩った人たち』 

執筆:大阪城天守閣 学芸員 岡嶋大峰

 

大阪城天守閣 
https://www.osakacastle.net/

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大阪城天守閣学芸員

豊臣秀吉築城以前の「大坂(石山)本願寺」の時代から、豊臣・徳川の「大坂城」、そして現代に至るまで、日々「大阪城」の歴史に関する調査・研究を続け、展覧会や講演会、執筆活動などを通じて、その魅力を伝える。

 

 

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