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十手を預かり、目明しの仕事もしていた大親分 ~ 浪曲師に語られた大前田栄五郎の″逆転人生″

江戸の世を沸かせた侠客の武勇譚と共助力・第9回

金銭トラブルを地でいくが‥‥逆転人生

「浪花節の寄席での口演風景」月岡耕漁筆『風俗画報』明治40.10.10号より/国立国会図書館蔵

 

 凶状持ちとなった大前田栄五郎は、関東取締役を取り締まる関八州を避け、尾張(愛知県西部)に逃げ込み、勝五郎という名に変えていた、ともいわれている。

 

 この頃、名古屋では大火事があり、栄五郎は消火活動などめざましい活躍をした。それが家老の目にとまり、尾張徳川家への出入りが許されたとか、のちに起こす丈八殺しはお咎めなしになったという。

 

 別の話によると、栄五郎はある賭博から50両を借金していた。

 

 その博徒が返済を迫ってきたところ、栄五郎は話がこじれてその博徒を斬殺する。役人に追われて逃げたが、途中で盗賊が尾張家の金を奪うのを目撃。栄五郎は盗賊から金を奪い返して、尾張家の江戸屋敷に届けた。その働きによって栄五郎はお咎めなしとなり、褒美として陣羽織をもらった、という話もある。

 

縄張りを民事解決するような仕組みで広げた画期

 

 栄五郎が生まれ故郷の大前田に帰ったのは天保4年(1833)すでに41歳になっていた。この時、対立していた丈八一家と和解している。

 

 その頃、上州では国定忠治が売り出していた。栄五郎は体格もいいし、上州から甲州、東海道にかけて多くの縄張りをもっていた。

 

 それというのも博徒たちの争いを仲介し、解決して、縄張りを謝礼としてもらったからだった。子分たちの上納金集めに歩き回るほどだったという。

 

 大前田栄五郎は博徒の親分として、その名は広く知られていた。のちに流行した浪曲『天保水滸伝』にも登場する。これは飯岡の助五郎と笹川繁蔵が大利根河原で決闘する物語だが、その山場の一つは天保13年(1842)3月、料亭十一屋での花会だった。

 

 この花会に、各地の親分衆とともに大前田栄五郎も顔を見せている。

 

 もっとも花会の部分は創作とも言われるが、創作にせよ、栄五郎は他の親分衆と一緒に顔を揃えるほど有名な親分になっていた。

 

大阪で活躍した浪曲師・京山大教の口演がまとめられた『日本侠客銘々伝』/国立国会図書館蔵

 栄五郎は大きな勢力を持っていたが、その一方では十手を預かり、目明しの仕事もしていた。二足の草鞋(わらじ)を履いていたわけだ。

 

 晩年には若い時のような人を斬って逃げるということはなかった。

 

 多くの博徒が若くして生涯を終えていたが、栄五郎が没したのは、なんと明治7年(1874)2月26日、風邪をこじらせて死んだ。82歳だったから博徒にはとても珍しく長命である。

 

 国定忠治が41歳で、お上によって処刑されたことを思えば、栄五郎はその倍も生きて、博徒たちに実力を示したのである。

 

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中江克己なかえかつみ

北海道函館市生まれ。河出書房などの編集者を経て歴史作家に。著書は『大江戸〈奇人変人〉かわら版』(新潮文庫)、『忠臣蔵と元禄時代』(中公文庫)、『お江戸の意外なモノの値段』(PHP文庫)、『日本史の中の女性逸話事典』(東京堂出版)など多数。

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