大前田栄五郎 〜「上州系三親分」のひとりはキレやすい悪漢だった
江戸の世を沸かせた侠客の武勇譚と共助力・第7回
親分は賭場の掛け金を融通するので貸元と呼ばれた

大前田栄五郎の墓/群馬県前橋市文化財保護課提供
19世紀前半の上州(群馬県)には、国定忠治をはじめ、大前田栄五郎(おおまえだえいごろう/小説やドラマ などでは英五郎)、島村の伊三郎など、博徒の親分が存在し、地域社会に影響を及ぼしていた。
博徒の集団は、まず親分がいて、その下に子分たちが集まり、強固な関係を結んだが、前提になるのは互いに盃をかわすことだった。
親分は貸元と呼ばれたが、これは賭場で賭け金を融通したりするので、そのように言われるようになった。
賭場を開く勢力範囲が「縄張」である。縄張を拡張していく過程で、縄張争いが起こり、これが原因で博徒集団が衝突し、時には血で血を洗う惨劇となった。
島村の伊三郎は本名を町田伊三郎という。
島村とは現在の群馬県伊勢崎町のことで、伊三郎はその島村の前島で生まれた。やがて成長するにつれて博徒の仲間入りをし、自ら縄張を持つまでになった。
しかし、天保5年(1834)7月2日の夜、国定忠治や三ツ木の文蔵たちに襲撃され、命を落とした。
のちに新門辰五郎・江戸屋虎五郎とともに「関東の三五郎」と呼ばれる前半生とは
大前田栄五郎は寛政5年(1793)、上野国勢多郡大前田(せたぐんおおまえた)村(群馬県前橋市大前田町)に生まれた。本姓は田島という。父は久五郎という博打打ちで、母はきよ。祖父は名主をつとめた家柄だった。郡代とは代官の支配を受けたり、あるいは大庄屋のもとで村内の民政に関与したりした。
ところが、父は博打を好み、博徒になった。
兄の要吉も博徒の仲間入りをしたが、栄五郎は子供の頃から喧嘩っぱやく「父の玉小僧」といわれたほどだった。カーッとなって火の玉のように激しく燃え、喧嘩をしたのである。地域で知らぬ者はいない有名人になり、やがて博徒の道を歩き出すこととなった。
栄五郎はすぐに頭に血が上りやすかった。
相当な気性の持ち主で、ひとことで言えば気の荒い男だった。15歳の時、父の縄張の内にやってきた武蔵国仁手村の清五郎が勝手に賭場を開いたのである。目障りだから栄五郎はすぐに追い払った。
そして、賭場に殴り込んだため、殺傷事件が起こった。
(次回に続く)