江戸の疫癘防除~疫神社の謎㉖~
疫神おくりと迷いやすい場所にあるという神送り塚の関係
ひとつ目小僧が12月8日に帳面を塞ノ神に預け、2月8日疫病神へ差し出す
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鎌倉時代、疱瘡は柄杓で熱湯をかける魔鶏羅鬼の行いとされた。『信仰と迷信』富士川游著/国立国会図書館蔵
話は、事八日の鬼に戻る。
箕借り婆(みかりばば)やひとつ目小僧を信じていた武蔵国の民草(たみくさ)には、神霊より大切なものがある。
自分の命だ。
この地域の言い伝えによれば、ひとつ目小僧は12月8日に帳面をつけるらしい。なにをつけるのかというと、回った家々の行状で、やれ戸締りが悪いだの、やれ家族の行儀が良くないだの、とにかくそこかしこの家の落ち度をつぎつぎに暴き出し、それを逐一、書き出してゆく。
この報告を上げる先が、疫病神だという。
疫病神は、その行状次第で、強烈な災厄つまり治る見込みのない疫病を齎(もたら)すのだ。
村の家々にしてみれば、たまったものではない。つまらぬ落ち度のせいで、おのれの身が危ないのだ。なんとかしなければならない。ひとつだけ、災疫を逃れる策があった。ひとつ目小僧は、その帳面を塞ノ神に預けるのである。塞ノ神は2月8日に疫病神へ差し出すという。そこで、民草どもは恐ろしいことを考えた。
――ひとつ目小僧の目を潰してしまえばいい。
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疱瘡神を祭る図『疱瘡心得草』志水軒朱蘭述/国立国会図書館蔵
掲げる籠に柊(ひいらぎ)を挿しておけば、尖った葉先が小僧の目を潰してくれるというものだ。
理屈としては、柊鰯(ひいらぎいわし)と同じである。
しかし、柊に近づかなかったらどうするのだという声があがり、
――ならば、サイノカミもろとも、帳面を焼き尽くしてしまえばいい。
という、さらに空恐ろしいことまで考え出した。
かくして、小正月のどんど焼きが生まれたということになるんだけれども、おのれの命を守るために神すらも殺してしまうという発想は、あまりにも手前勝手なものなんじゃないのか。
そんなことを考えながら、武蔵野市や三鷹市の図書館をうろうろしていたとき、(あ、でも)ふわっと、気がついた。
飛田給、上下石原方面にあった神送り塚
これって、実は、もともと定められた神事なわけで、天然痘の流行のように突発的な災いに対処するものってわけじゃないよな。
(もしも、毎年の火焚き神事でも避けることのできないような猛烈な疫神が、つまり疱瘡神が、襲来してきたときはどうしたんだろう?)
やっぱり、特別な儀式をしたんじゃないのか。
(普段とはまるで異なる火焚きをしたんじゃないだろうか)
そんなことを考えつつ、ふたたび、資料を手にした。すると、ひとつ、民話でも口伝でもない不思議な記録が目に留まった。前にも参照した『調布市百年史』の一節だ。
『疫病は、急性流行病をいったものである。ひとたびこれが発生すると隣近所に伝染し、庶民は極度に恐怖した。そのため、これを免れたいために神仏への願いも盛んであったわけであるが、そんな気持ちの現れのひとつが〝神送り〟の行事であった。調布中学校とその東電源開発の施設との中間、道路の北側に〝神送り塚〟があった。敷地は10坪ほど、高さ1メートルほどの塚の上に、40センチくらいの石造りの小詞が南面して立ち、その前に鳥居があった。昔から飛田給(とびたきゅう)、上石原(かみいしわら)、下石原(しもいしわら)方面の人々にはもっとも寂しいところ、そして道に迷いやすいところ、おうおう狐に抓まれるところだったという。そして、村人たちが厄病神を大沢村方面から五宿方面へ送り込んできた行事が〝神送り〟で、送ってきて祀ったところが〝神送り塚〟であった。明治に入ってから、この行事は聞かれない、その〝神送り塚〟は終戦後も存在したが、その辺一帯の開発で現存せず、付近で知る人もなくなった』
(神送り……これって……)
ちょっとだけ、鳥肌が立った。
(出雲へ向かう神さまを送り出すことじゃないな……)
この『調布市百年史』にいう「神」が何者であったのか、明確には書かれていない。けれど、この国のあまたの地域に「疫神おくり」という行事が伝えられていることを念頭に置いて、抜き出した最初の『疫病は、急性流行病をいった』という文章を読み返せば、ここにいう「神おくり」が「疱瘡神を退散させるためのもの」だっただろうことは、まず、疑いない。
さらには、こうある。
『また、この練り歩きの際、鐘や太鼓や龍笛(りゅうてき)などで囃(はや)し立てられたところも少なくなく、歩くだけでは足りないとされたところでは疱瘡踊りまでなされた』
あった……。見つけたぞ……。疫神おくりだ……。