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江戸の疫癘防除(えきれいぼうじょ)~疫神社の謎㉑~

柴崎から上布田の宿場にまたがる講中と道祖神

由緒や参詣の仕方が講と類似する御嶽神社

中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で本尊として知られ、三尸を押さえる庚申講の神 写真/稲生達朗

 ひとくちに御嶽神社と書いても、実は多岐に分かれている。

 

 布多天神社の末社のひとつ御嶽神社は、たぶん、武蔵御嶽神社のことだろう。どうして、数ある御嶽神社の中でも武蔵御嶽神社を特定できるのかといえば、ふとおもいたって調布市の郷土資料館を訪れたとき、陳列棚に、ある御神札が展示されていたからだ。

 

 狼の絵の描かれた『おいぬ様』こと『武藏國御嶽山大口真神』の御札で、市内の個人宅に伝えられたもののようで、天保年間あたりから多摩川の流域の村々に配られたらしい。そうしたこともあって、布多天神の末社の御嶽神社は武蔵御嶽神社を勧請したのではないかとおもえる。

 

 ちなみに、武蔵御嶽神社は、武蔵国多摩郡、今でいう東京都青梅市に鎮座している。

 

 創建は、驚くほどに古い。

 

 崇神(すじん)天皇の7年というから、紀元前まで遡る。

 

 もっとも、金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)が安置されたのは天平年間のようで、この国で最初に大僧正とされた行基(ぎょうき)が勧請したと伝えられている。行基は近畿一帯に仏法を広め、かつ社会基盤を整え、東大寺の大仏造営の勧進も行なっているんだけど、それらについては擱(お)こう。

 

 ともかく、行基が蔵王権現を勧請して以降、この武蔵御嶽神社は修験道の行場のひとつとされてきた。ただし、名称は、たびたび変えられている。平安時代には大麻止乃豆天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)、鎌倉時代には金峯山御嶽大権現、そして明治維新を経てまもなく御嶽神社に改められた。武蔵御嶽神社と名乗るようになったのは、昭和27年のことだ。

 

 主祭神は櫛真智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、安閑(あんかん)天皇 、日本武尊(やまとたけるのみこと)だけど、もうひと柱ある。

 

 おいぬさまだ。

 

 漢字では「御狗様」と書く。もちろん、狗は「いぬ」ではなく「おおかみ」を意味している。それも日本武尊の道案内に立った白き狼で、この眷属の伝説は三峯神社とよく似ている。というより、祭神が異なるくらいで、由緒は実によく似ている。

 

 いや、由緒だけでなく、参詣の仕方もよく似ている。

 

(やっぱり、講だ)

 

地縁と信仰によって結びついた講と修験道

 

 講は、地縁と信仰によって結びついた人の輪とおもえばよくわかる。

 

 無尽講(むじんこう)、頼母子講(たのもしこう)、法華八講(ほっけはっこう)などにいう「講」なんだけど、ここでは特に富士講、伊勢講、大山講、筑波講、赤城講、榛名講、戸隠講、三峯講、出羽三山講といった霊山への参詣を主眼とするものを指している。出羽三山は「月山、羽黒山、湯殿山」のことだから、三界寺の羽黒派修験道はここにいう出羽三山講にあたる。

 

 どの講も、神社から派遣される御師によって形づくられ、かつ導かれるらしい。御師というのは御祈祷師の略称で、最初から御師を志した者もいれば、社僧や山伏から御師になった者もあったりして、出自は実にさまざまだ。

 

 むろん、神札を配るのも御師の役目とされる。御師は講の中から代表を募り、富士講であれば富士山へ、伊勢講であれば伊勢神宮へ、すなわち霊山へ案内し、そこで自分が営んでいる宿坊に泊め、神社の参拝に先導し、太々神楽を奉納してもらう。これを、代参講という。

 

 布多天神社の末社とされる御嶽神社の講も、例外じゃない。

 

 資料によれば、御師が主に多摩川流域の村里を廻って講を組ませ、代参の費用を積み立てさせ、代参員を選ばせ、御嶽山へ案内したらしい。御嶽神社で受けてくるのは、講の全戸に配る代参札と杉の葉と共に細竹に挟んで四つ辻に立てる代参大札だという。この代参札を、ぼくは、郷土資料館で目にした。代参大札は見ていないが『御嶽神社祈祷神璽講中安全』と刷られているらしい。

 

(あ、でも)

疫病の意味も含め悪鬼を踏みつける小金井・市杵嶋神社の庚申塔 写真/稲生達朗

 神仏習合の時代は、布多天神の末社はどのように扱われていたんだろう。

 

 ちょっと取っつきにくい『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』を開いてみると「布多天神社の別当を務めていたのは栄法寺という寺院だった」と記されている。菅原家の末孫に永法房という人がいて、千年ほど前の永延年間に、古天神の社の東隣に庵を結び、その跡に広福山常行院永法寺という新義真言宗豊山派の寺院が建てられたらしい。

 

 500年ほど前、布多天神が今の上布田へ遷された際も共に遷り、明治維新の神仏分離まで続いたそうだ。ところが、大正4年に不動院と宝性寺というふたつの寺と合併し、もともと永法寺の墓地だったところに三栄山大正寺が創建された。永法寺の昔を物語るものとしては山門と本堂が現存しているが、もしかしたら、江戸期、その境内でも山伏による護摩供養が為されていたかもしれない。

 

(繋がってきた)

 

 修験道が、柴崎稲荷・三界寺の出羽三山講と三峯講と富士講、そして布多天神社・栄法寺の御嶽講として、柴崎から上布田にかけての宿場全体にそれらの信仰が広がっていたのは、ほぼまちがいない。もしも、そこで、講中によって疫病退散の祈祷が行われていたとすれば、これはもう宿場がこぞって炎を焚き上げていたことになる。

 

(凄まじく大掛かりな神事じゃないか)

 

 なんだか、現在の北多摩とはまるで異なる世界にさ迷い込んでいるような気がする。

 

 ぼくの知っている多摩川の流域は、修験道とは縁もゆかりもなさそうな土地柄におもえるんだけど、でもそれは、ぼくがここの歴史に疎いからだろう。

 

 ぼくは愛知県の生まれ育ちで、たまさか北多摩に住んでしまった異邦人に過ぎない。

 

 異邦人はどこまで行っても異邦人で、その土地にまつわる大小のことはまったく知らない。だから、この地に蔓延していた疫病の残滓(ざんし)も察せられないし、根深く続いてきたであろう修験道も知らなければ、固く結ばれていた講中すら気づかずにいる。

 

(でも、どうなんだろう)

 

 努めて、冷静になろうとした。

 

(ほんとうに、この地で、疫病退散の火焚き神事が行われていたんだろうか?)

 

 (次回に続く)

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過去記事

秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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