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江戸の疫癘防除~疫神社の謎⑳~

武蔵野の疱瘡神を修験道の神社が守った

柴崎三界寺の「福を招き、厄を祓う」火祭りをイメージする

8月16日京都府左京区にある如意ヶ嶽(にょいがたけ・大文字山)で行われる「大文字の送り火」

 この国では、津々浦々まで、火を崇(あが)める神事、すなわち火祭りが行なわれている。

 

 それも実に多彩で、村里の素朴な火焚きから、洛中の壮麗な火焚きまで、無数にある。

 

 左義長(さぎちょう)、松上げ、護摩焚き、送り火、火渡り神事とあまたあり、どんど焼きにいたっては、とんど焼き、どんと焼き、どんどん焼き、おんべ焼き、さいと焼きなど、数え切れない。

 

 とはいえ、その本質は、ほとんど変わらない。

 

 福を招き、厄を祓う。福とはすなわち福の神で、厄は疫病神に他ならない。 

 

 疫病神の中には、むろん、疱瘡神も含まれる。

 

 かつて、北多摩のそこかしこで火祭りが催され、それが大掛かりなものであれ、小ぢんまりとしたものであれ、福を招いて厄を祓うものであったことはまちがいないだろうし、ときに、疱瘡神を退き散らすか追い払うかしようとしたものも催されたかもしれない。

 

 でも、そこで確信の持てないこともある。

 

夏越しの祓いと年越しの祓いに逗留した山伏

 

 山伏の在否だ。

 

 山伏がいるかいないかというのは、焚かれるその火に神秘的なちからが籠められるかどうかという、なんとも精神的なものなんだけど、時代を問わず、火を拝み崇める人々にとってはとても大切な条件のひとつだ。ことに、江戸期、山伏の神通力は、現代人が想像するよりも遙かに偉大なものだったろう。

 

 もちろん、かれらは修験の徒であり、日頃は峻険な山の奥深くに入り込み、精神と肉体を鍛練し続けている。里に定住して里山伏と呼ばれるようになった者もいるにはいたが、そうでないかぎり、里の民がふとおもいついて「村の辻あたりで護摩焚きをしてもらえるよう注文する」とかいうわけにはいかない。

 

 けれど、火祭りの場が修験道の拠点であったら、話は別だ。

 

 修験道がつぎつぎに廃絶に追い込まれていった神仏分離より前、つまり明治維新を迎えるまでの三界寺は、そのような場だったのではないか。

 

 すくなくとも、夏越しの祓いと年越しの祓いの時期には、それなりの数の山伏が逗留(とうりゅう)していたとおもっていい。

謎めく武蔵・小金井の疱瘡神社の祠 写真/稲生達朗

(いや、三界寺だけじゃない)

 

 ぼくの眼は、ふたたび、神社一覧に吸い込まれた。

 

 布多天神の末社に、御嶽神社が載せられている。この小祠(しょうし)は、布多天神を訪れたときに、まちがいなく見た。

 

 小さな石祠が、疱瘡神社と並んでいた。あのときはぼんやりして気がつかなかったけど、あらためて考えれば、並列されていた理由がなんとなくわかる。

 

(疱瘡神を封じ込めるために、修験道の神社が置かれていたんじゃないのか?)

 

布多天神社の中にある疱瘡神社 写真/稲生達朗

(次回に続く)

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過去記事

秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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