歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第91回~三好長慶~
平穏を愛した私心無き権力者
天下統一より安定した生活を望んだ⁉ 戦国時代最初の天下人

2019年に造られた三好長慶の「生誕碑」(徳島県三好市三野町芝生)。三好一族の拠点・芝生城があったとされる殿屋敷地区に設けられた。
歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。
今回は、大河ドラマ「麒麟がくる」でその存在感を知らしめた、三好長慶(みよしながよし)を四柱推命で鑑定する。戦国時代の天下人といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人を思い浮かべるだろうが、長慶は戦国時代最初の天下人とも言われる。名将でありながら過小評価されている長慶の人となりとは?
三好長慶
生年月日: 大永2年2月13日(グレゴリオ暦:西暦1522年3月20日)
※生年月日は「三好家譜」によるもの。誤りの多い文献のため、異なる可能性もある。

三好長慶:大永2年2月13日生まれの命式表
長慶の生年月日から命式表を割り出すと上記のようになる。この中で、性格を表す、通変星・蔵干通編星をわかりやすく円グラフに表すと、人脈30%、行動力30%、遊び心30%、知性10%という結果になった。自立心は持っていなかった。

三好長慶:大永2年2月13日生まれの性格
知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手
行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる
人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。
自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。
遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。
これらを材料に、長慶の性格を読み解いていく。
○バランスの取れた性格!三徳!
長慶は命式表に、知性・行動力・人脈の3つの星を持っているが、このような人物を「三徳(さんとく)」と呼び、性格のバランスが取れており、社会生活に困らない。
長慶はバランス感覚と安定感のある性格で、家臣にも慕われていたのだろう。若くして早々に才覚を表した。当時の主君・細川晴元(はるもと)は、長慶の父・元長(もとなが)を討つために本願寺光教に頼んで一向一揆を起こさせたが、その後一揆は収拾せずに、享禄・天文の乱へと発展していく。そんな中、一揆を収束させたのが、まだ12歳の長慶だった。『本福寺明宗跡書』には、天文2(1533)年に「三好仙熊(長慶)に扱をまかせて、敵方悉く敗軍す」とあり、長慶の仲介によって和睦がなったことが記録されている。家臣の支えもあってのことだろうが、すでに12歳にして家臣に慕われ、信頼される人物だったと言えそうだ。
○優しく温厚な性格
月柱(げっちゅう)の蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)を主星(しゅせい)と呼び、通変星の中で最も性格を表す大事な星と言われる。長慶はこの場所に「正財(せいざい)」を持っている。「正財」は人脈の星で、人当たりがよく優しく親切で、コミュニケーション能力が高い。これを主星に持っていた長慶は、優しく温厚な人物だったのだろう。
下剋上の人物として名高い長慶だが、その功績とは裏腹に、戦の場において、最後まで敵を追い詰めることなく、和睦を図った。細川晴元と当時の将軍・足利義輝(よしてる)を破った時にも追撃をせず、弟から「晴元の三宅城を落とそう」と提案された時もこれを拒否したという。それどころか、晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望した。「足利李世記」によると、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したのだとか。温厚で寛大な性格が見て取れる。
○THE 芸術家
長慶は、命式表の中に、2つの芸術の星をもっている。通変星の「傷官(しょうかん)」と、十二運星の「沐浴(もくよく)」だ。いずれか1つ持っているだけでも、芸術の才能を発揮するが、2つ持っている長慶は、かなり芸術に傾倒したのだろう。
長慶は、武将の中でも高い教養を誇り、特に和歌や連歌を好んだ。禁裏(きんり)で行われた歌会にも参加し、自ら『後撰和歌集』の書写も行っている。連歌というと、細川藤孝や明智光秀のイメージだが、武将の第一人者と言えるだろう。細川藤孝ものちに、「長慶の連歌はよく推敲された句である」と評価したことが伝わっている。
○自立心がない!
意外にも自立心の星を持っていなかった。目標を常に持ちそれに向かう強い精神力やリーダーシップに乏しかった可能性がある。
事実上三好政権が成立するも、身内の死をきっかけに崩壊していった。まず、永禄4(1561)年に弟の十河一存(そごうかずまさ)が亡くなり、その翌年、長慶のすぐ下の弟・実休(じっきゅう)が戦死する。またそれに続くように、永禄6(1563)年、嫡男・義興(よしおき)が22歳の若さで亡くなった。毎年のように肉親を失った長慶の精神は不安定になり、一説によるとうつ病だったとも伝わる。翌年の永禄7(1564)年、長慶は唯一残っていた弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城へ呼び出し、誅殺(ちゅうさつ)した。
これらのことから、長慶はあくまで家族や身近な人との安定的な生活を望んでおり、天下統一という大それた目標は持っていなかったのかもしれない。
○戦国大名というよりは修行僧!現世に興味がない!
十二運星(じゅうにうんせい)から運勢エネルギーを算出するが、エネルギーは3~36で表される。平均は15と言われる。長慶の運勢エネルギーを見てみると、合計は11で、平均以下だった。しかも「絶(ぜつ)」という後世の星と「胎(たい)」という前世の星を持っている。今世ではなく、後世や前世への関心が強そうだ。つまり、お金や名誉といった今世に価値のあるものよりも、将来の民や子孫、次元を超えた過去の世界に思いを馳せていた可能性がある。
こんな逸話が残る。17歳の時、突然家臣に対し「これから3年間、毎夏百日間、求聞持法(ぐもんじほう:虚空蔵菩薩を本尊として修する行法で、知恵を得、福を招くとされる荒行)をやる」と言い出した。重臣たちが反対すると、長慶は次のように答えた。
「わしはいまだに幼年だから将来のことなどまったくわからない。わからないから、まず不幸になると考えたほうが間違いないのだ。幸運をもって生まれてきた人は、自生の木のように少しくらいの風を受けても枯れることはないが、人の手で植えた木はそうはいかない。添木をしなければ、風邪にあたって枯れることもあろう。それゆえ、わしがこのたび求聞持の行法をやろうというのは、植えた樹木に添木をするようなものである」
17歳より行をはじめ、19歳の夏には満願となったが、それでも不十分と思ったのか、その年の暮れまで、四国中を巡礼したという。なお、記録によれば、18歳の正月には上洛していることから、この行法が真実かどうかは定かではない。しかし、長慶はそのように過去や未来を見据えた、次元を超えた発想をする人物だったのだろう。
あまり名の知られていない長慶であるが、強靭な権力を持っていた裏付けとしてイエズス会の報告がある。イエズス会のフェルナンデスの報告によると、都の政治は3人に依存しているという。「①将軍である公方様、②その家臣である三好長慶、③三好家臣の松永久秀だ。①は名声以外には何もなく、②の長慶が家臣でありながら権力を持っている。そして③久秀は、長慶に臣従して国を治め、法を司っている」と。イエズス会から見ても、長慶が天下人と呼べる立場にいたようだ。
あくまで、生年月日が正しいことが前提であるが、四柱推命鑑定の結果、長慶には大きな野心がなく、後世や前世を考える修行僧的な生き方を好む人物であることが明らかになった。家臣の久秀とのギャップが興味深く、お互いに自分にないものを補い合った最高の主従関係だったのかもしれない。
【参考文献】
・最初の天下人?三好長慶 その経歴と功績、人物像に迫る! 歴人マガジン https://rekijin.com/?p=31756 (2021年1月7日最終アクセス)
・「三好長慶」仙谷最初の天下人!信長よりも先に転嫁を手にした武将 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/607 (2021年1月7日最終アクセス)
・「天下取り採点 戦国武将205人」菅春貴 新人物往来社(1998)
■四柱推命とは?
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。なお、ここでは生まれた時間は鑑定に含めていない。