歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第88回~明智光秀特別編④ 四柱推命鑑定まとめ~
織田軍随一の切れ者の実像に迫る
3つの生年月日のうち、実際の明智光秀像に最も近いのは…⁉

現在は京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町にある本能寺。本能寺の変が起こった当時は別の場所であったが、天正19年(1951)に秀吉の命で現在の場所に移転した/著者撮影
歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命の説明はページの最後をご覧ください。
これまで大河ドラマ「麒麟がくる」の主役、明智光秀の四柱推命鑑定を、3回にわたって行ってきた。というのも、光秀の生年月日は諸説あり、学者の間でも意見が分かれているのだ。その中で、日付まで明らかになっている3つの生年月日である①享禄元(1529)年3月10日、➁享禄元(1529)年8月17日、③大永6(1526)年8月15日から命式表を割り出し、そこから浮かび上がる光秀像を考察してきた。それぞれ全く異なる結果となったが、今回はその3つをもとに検討を行う。
3つのうちどの生年月日が一番光秀らしいのか、あるいは他の生年月日の可能性もあるのか…。明智光秀のご子孫で、「歴史捜査」を手掛けて光秀や信長について数々の本を出版している、明智憲三郎さんにご意見を伺いながら、私なりの解釈をまとめたいと思う。
なお、明智憲三郎さんは、光秀の生まれについて、今回の3つとは異なる、「当代記」の記載から生まれ年を割り出した永正13(1516)年説を支持しており、あくまでもそのことを前提に光秀の人となりについてコメントして頂いた。
※これまでの生年月日の鑑定結果の詳細は以下のリンクをご覧ください。
歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第84回~明智光秀特別編① 享禄元年(1529)3月10日生まれの場合~
歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第85回~明智光秀特別編② 享禄元年(1529)8月17日生まれの場合~
歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第86回~明智光秀特別編③ 大永6年(1526)8月15日生まれの場合~
①享禄元(1529)年3月10日生まれの光秀

明智光秀①の性格
【まとめ】
・行動力40%、遊び心30%、人脈20%、自立心10%、知性0%
➡行動力が高く、知性がない
【特徴】
・傷つきやすくナイーブ
・芸術肌
・組織の王様
・ご先祖とご縁が深い。仏教に精通
・活躍のピークが若年期
【明智憲三郎さんからのコメント】
「知性がないというのは、光秀のイメージと異なる。光秀が信長に登用され異例の大出世を果たした理由は、戦に勝ち抜くための戦略、企画力などといった能力を買われていたからではないだろうか。信長が思いもつかないような、知恵を付けてくれる存在だったのでは? だからこそ、光秀は信長に重宝された。天正9年(1581)に信長は京都で馬揃えを大々的に行ったが、これは発想が突拍子もなく、意外性のあるものだった。周辺大名をけん制する意図があったのかもしれず、文書に記載が残っていないからわからないが、例えば、この知恵を授けたのが光秀かもしれないとも私は思っている」
【筆者の所感】
命式表の一番大事な部分、主星(しゅせい)に「傷官(しょうかん)」があることから、傷つきやすくナイーブで、芸術性の高い光秀像が浮かび上がる。光秀がナイーブだったかどうか定かではないが、感性が鋭く芸術性が高かったというのは言えるだろう。
織田家中でも教養が高かったと言われる光秀。光秀は立入宗継(たてりむねつぐ)から次のように評された。「名誉の大将也、弓取は煎じて飲むべき事」武士の手本となるべき素晴らしい武将だという意味だ。茶湯や和歌、連歌は織田家中の重臣にとって身につけるべき必須の芸事だった。しかし、秀吉らが芸事を最低限の素養として嗜んでいたのに対し、光秀は、一流の文化人と交流があり(和歌は藤孝「ふじたか」、連歌は里村紹巴「さとむらじょうは」、茶湯は宗久「そうきゅう」や若狭谷宗啓「わかさやそうけい」)、他の織田家臣よりもはるかに造詣が深かったといえるだろう。
百韻を10回重ねることによって千句詠むイベントを千句興行というが、数日がかりのハードなものだった。光秀はこの千句興行への出席が多いが、連歌は連衆による連作で展開するため、即興性と全体の調和が重視される。要するに、芸術的なセンスがなければできないものだった。と考えると、「傷官」が主星にあるのは納得がいく。
「劫財」+「帝旺」は組織の王様という意味で、社長向きのエネルギーの強い星であるが、織田家臣として目まぐるしい活躍をした光秀がこれを持っていたということに納得できる。しかし、筆者の疑問は、これが年柱にあることだ。年柱は若年期、月柱は壮年期、日柱は老年期を表す。年柱に「劫財」+「帝旺」があるものの、月柱・日柱の星はそれほどエネルギーが強くない。ご存知のように、若年期の光秀の記述はほとんど残っていない。生年月日どころか、生年に関する記述も少なく、足利義昭に仕えるまでほとんど記録に出てこない。それゆえ、一概には言えないものの、活躍があるから文献に記述が残ると仮定すると、ピークが若年期だったというのは解せない。
②享禄元(1529)年8月17日生まれの光秀

明智光秀②の性格
【まとめ】
・行動力10%、遊び心10%、人脈50%、自立心0%、知性30%
➡人脈が高く、自立心がない
【特徴】
・とっても真面目でお役人向き
・とってもいい人、気遣い上手
・奥さんを大切にする
・石橋を叩いて渡る超慎重派
・スピリチュアルさん
・神道に精通
【明智憲三郎さんからのコメント】
「お役人向きの真面目な性格だったというのは、書状などからも見て取れる。政務に対して細心の注意を払っていたものと思われる。しかし、自立心がないというのはちょっと違和感がある。意識が確立していて、一族郎党を守らねばならないという責任感が強かったのではないか。人をまとめるのも得意だったようで、行政面の能力を信長から買われていた」
【筆者の所感】
先の明智憲三郎さんのコメントにもあったが、光秀は知的能力に長けていたと予想される。この命式には知性の星がある。特に「印綬」は知識や教養があり勉強好きの星だが、様々な本を読んだのだろう。京都の福知山という名前は丹波を平定した光秀名付けたと言われるが、「丹波なる吹風(ふくち)の山のもみじ葉は散らぬ先より散るかとぞ思ふ」という和泉式部の和歌を基に、「ふくち」の「ち」に自らの姓の「智」を当てたと伝わる。知識人でなければできない発想だ。
真面目でかっちり、お役人タイプというのは、納得がいく。光秀が定めた18か条の軍規は、鉄砲、槍、指物(さしもの)、幟(のぼり)の数をしっかり規定するなど、類がないほどの細密さだったという。
③大永6(1526)年8月15日生まれの光秀

明智光秀③の性格
【まとめ】
・知性30%、人脈30%、自立心30%、遊び心10%、行動力0%
➡行動力がない
【特徴】
・根は真面目
・好奇心が強く様々なことに果敢に挑戦
・奥さんを大切にする
・我が強く本当は人に従うのが苦手
・神道と仏教に精通!ご先祖とのご縁が深い
・人から信用される、鑑定士タイプ!?
【明智憲三郎さんのコメント】
「これはなんとなく収まりがいいように思う。知性もあり自立心もあり、信長に気に入られそうな性格だと思われる」
【筆者の所感】
先ほど見た、生年月日➁と比べると真面目度は少し落ちるが、主星という一番大事な場所に「正財」を持っていて、根は真面目だったと予想される。
あえて、「根は」と表現しているのは、主星の次に大事とされる、自星(じせい)に「偏印(へんいん)」という、個性的な星を持っているからだ。「偏印」はアイディア力に長け企画力がある星であるが、変化を好む星でもある。現代で言うと、ベンチャーに向くタイプだ。根は真面目だが、好奇心旺盛…。光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかというのは永遠の謎であるが、生年月日➁で見たような、THEお役人タイプだとなかなか一大事に踏み切れないように思う。真面目な性格の裏に、ベンチャータイプの性格があったと考えると、少し納得がいく気がする。
自立心の星、「劫財(ごうざい)」と「比肩(ひけん)」を持っている。いずれも強い精神を持った星であるが、「劫財」はリーダーシップを発揮して部下をまとめるのが得意な星、「比肩」は一匹狼の職人気質だ。光秀は信長の命を受け、各地を平定したが、今でもその土地のご子孫から厚い信頼を受けている。その理由は政治手腕だったと思う。光秀は国人衆を家臣とした。当時どこの国にも「国人衆」というその土地を支配する領主がいた。国人衆はほとんどが治外法権の政治を行っていたため、統治者が変わる度に淘汰され、新しい統治者に取って代わられる場合が多かった。しかし、光秀はその国人衆を家臣に取り立て、領民の生活を変えることなく統治し、光秀の善政を領民に行き渡らせたのだ。先の明智憲三郎さんのコメントにもあったが、光秀は自立心を持っていたのだと思う。
以上の3つの結果を、筆者が考える明智光秀像をもとに、簡単に表にまとめてみた。

筆者が想像する明智光秀のイメージ
四柱推命鑑定の結果では、この3つのうちだと③大永6(1526)年8月15日生まれが一番本人像に近そうだ。だが、もちろんこれが結論ではない。光秀の生まれ年については多々いわれがあるし、全く異なる生年月日の可能性もある。明智憲三郎さんによると、生年月日という考え方はそもそも戦国時代の日本になかったそうで、生まれた日付まで記載した資料があるということがむしろ珍しいのだそうだ。
本来、四柱推命は、生年月日からその人の宿命を知り、生き方の指針とするものだ。しかし、今回のように、どの命式表がより光秀らしいのか、という視点で生年月日を読み解こうとするのも、なかなかロマンがあり楽しかった。光秀にしたら、まさか自分の生年月日を巡りこのような議論が交わされているとは思わないだろう。歴史に「たられば」は無く、憶測で語ってはいけないのは重々承知しているが、茶飲み話にでもなれば幸いである。

谷姓寺(こくしょうじ 京都府亀岡市)内にある、明智光秀の首塚。首塚は東山区三条白川筋にもあり、「東梅宮並明智光秀墳」(明智明神)と呼ばれている/著者撮影
【参考文献】
・「ここまでわかった!明智光秀の謎」 『歴史読本』編集部 KADOKAWA (2014)
■四柱推命とは?
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。なお、ここでは生まれた時間は鑑定に含めていない。