裏切り者として銃殺された「清朝の王女」 なぜ「男装の麗人」は悲劇的な最期を迎えたのか?
炎上とスキャンダルの歴史
■時代に翻弄された悲劇のヒロイン
「男装の麗人」川島芳子の誕生は大正13年(1924年)10月6日でした。清朝の皇族の一員として生まれ、理由あって日本に送られ、養父の政治活動家・川島浪花の世話になっていた芳子。成績優秀だったものの、養父が芳子の通う女学校とモメたせいで退学させられてしまいました。自宅で勉学に励んでいましたが、高貴な血統の芳子に言い寄る男性は多かったそうです。
そんなある日、突然、芳子は長い黒髪を床屋でバッサリと刈り取って帰宅。これから私は男として生きるという「男性宣言」までしたので、家人を驚愕させたのでした。
自伝『川島芳子 動乱の蔭に』によると、断髪は「女であることの煩わしさ」、さらに「宗社復辟」――清朝復活を自分の手で成し遂げたいという「夢のようなヒロイックな気持ちが結合」した結果だといいますが、それだけで本当に「五分刈の坊主頭」にまでなるものでしょうか。
この行動の影には、芳子が養父・川島浪速から「女」として見られていることがストレスで、坊主頭と「男性宣言」で川島の欲望をハネつけようとしたのでは……と見ることはできます。
芳子は「フランス救国の乙女」で、男装で戦場を駆け抜けたジャンヌ・ダルクに傾倒していましたが、のちにジャンヌも囚われの身となり、異性装を禁止された後もなおズボンを履き続けたことで知られます。それはジャンヌの説明によると、スカートよりズボンのほうが脱がしづらい、つまりレイプされづらかったからでした。
しかし、芳子の実兄の新覚羅憲立(あいしんかくら・けんりゅう)を始めとした粛親王家の人々は、断髪事件の引き金となったのは、川島浪速が暴力的に芳子をものにしたからで、それによって芳子が不安定になった末の事件だと発言しました。
その一方で川島家の人々は、新覚羅憲立の証言を完全否定しています。それゆえ近年、話題を呼んだ上坂冬子氏の『男装の麗人・川島芳子伝』でも、芳子の断髪事件の背景は「諸説ある」という結論に留まっているのでした。
関係者の証言が真っ向から食い違い、彼女の「自伝」も、芳子が「祐筆」つまり秘書のような役割の伊賀上茂が代筆した代物だと判明している現在、これ以上の真相に迫ることは困難です。
しかし男性宣言後も、男性の視線を惹きつけたがるのが芳子の性(さが)でした。伊賀上による「自伝」の序文「川島芳子女士(原文ママ)の横顔」によると、芳子との初対面は夜の12時過ぎ。場所は、北京の紫禁城に近い胡同地区にあった芳子の「隠れ家」でした。
日時と場所の指定は芳子によるもので、ためらいながら伊賀上が参上すると、面会場所の応接間の暖炉の上には「軍服姿」の芳子の写真が拡大されてかけられ、そこに芳子本人が「踊り子のように短いスカートをひらひらさせて」現れたというのです。
またその数日後、伊賀上はダンスホールで「緋のイブニング」をまとって「人魚のように美しい姿態」で踊り狂う芳子の姿を目撃しています。単純に「ナルシスト」とか「目立ちたがり」を通り越した何かを感じてしまいませんか?
昭和7年(1932年)から、芳子は作家・松村梢風から密着取材を受け、小説『男装の麗人』をまとめてもらっているのですが、これが大ヒット。芳子役を水谷八重子(初代)が演じた舞台も人気を博するなど「時代のヒロイン」となった体験がありました。
そのブームも落ち着いてしまった昭和15年(1940年)に出版されたのが、芳子の「自伝」です。要するに「二匹目のドジョウ」を狙った芳子によるメディア戦略に過ぎないのですが、その完成度の低さについても、すでに三十代となり、心身の不調も表面化しはじめたのに「男装の麗人」以上の世評、そして実績も獲得できていない芳子の焦りが感じられる気がします。
結局、芳子は何らかの理由――おそらく「自伝」で語ったほど無邪気な話とは異なる理由で、断髪・男装を覚えてからは病的なまでの自己承認欲求を抱えることになり、それと彼女の「ラストエンペラー」溥儀の親戚であるという血統が、日本軍による中国大陸での軍事活動に利用されてしまったことが大きなダメージとなりました。
満洲国の悲惨な現実を知った芳子は日本軍を批判し、中国における革命軍と両方から命を狙われるようになったのです。こうして戦後の中国で囚われ、孤立無援の芳子は「漢奸(=中国への裏切り者)」の中国人として銃殺されました。戸籍を日本人にしていなかったことが致命傷でした。ジャンヌ・ダルク同様、「悲劇のヒロイン」として芳子の物語は終わったのです。

『新聞聯合写真ニュース 1933年8月』より/国立国会図書館蔵