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武田勝頼の妹・松姫の悲劇 武田と織田の間で翻弄された姫の逃避行

日本史あやしい話


武田勝頼が天目山の麓で自害、それによって武田氏が滅亡してしまったとのお話は、よく知られるところだろう。しかし、勝頼の妹・松姫が、織田軍に追われて兄とは別ルートで逃避行を続けていたことは、あまり語られることがなかった。その足取りすら明確ではないのだ。いったいどこを辿って逃げ延びたのか?その謎に迫ってみたい。


 

■戦国の世に生まれた松姫の嘆き

 

「男は何ゆえ、戦をせねばならぬ」

 こう問いかけたのは、武田信玄の四女・松姫であった。兄・勝頼が天目山の麓で自害して、武田家もすでに滅亡。その残党狩りに血眼になる織田軍の目、それをかいくぐりながら山中を東へ東へと逃避する途上、足を痛めた彼女が、御寮人衆・窪田獅子之助の背に負ぶわれながら、こう問いかけたのである。

「挑まれて退けねば、こちらが殺され申す。国持ち・城持ち大名ならば尚のこと」と獅子之助が答えるも納得しきれず、「男は戦をせねばすまぬ生き物であるか。悲しい性よのう」と嘆いてしまうのであった。

 

 この冒頭の問いかけやその後の受け答えは、仁志耕一郎氏が著した歴史小説『松姫はゆく』(角川春樹事務所)に記されたものである。謎めく松姫の逃避行、その経路を探る上でも重要な情報を数多く提供してくれる貴重な書で、松姫や彼女を取り巻く人々の思いまで慮ることのできるというのも魅力的。筆者が今一番お勧めしたい一冊である。

 

■武田家ゆかりの子女たちを伴っての逃避行

 

 ともあれ、ここからはしばし、武田氏滅亡の歴史を振り返って見ることにしたい。信玄が病没したのは1573年のこと。その死を秘しながら跡を継いだ勝頼であったが、結局、家臣たちをまとめきれず、10年にも満たぬうちに新府城を脱出する羽目に。再起を目指すも、次々と臣下たちに裏切られ、ついには天目山の麓・田野の地で自害に追い込まれてしまったのである。この悲運の将・勝頼の逃避行については、様々な書に記されているからご存知の方も多いことだろう。

 

 しかし同じ頃、勝頼の妹・松姫なるうら若き女性が、兄とは別ルートを辿って逃避行を続けていたことに関しては、あまり詳細に語られることはなかった。どこをどのようにたどっていったのか?苦労のほどはいかがなものであったのか?ここでは、それに目を向けたいと思うのだ。

 

 なお、この逃避行に加わっていたのは、松姫の兄で信玄の五男であった仁科盛信(高遠城主)の長男・信基と長女・玉田院殿(小督姫とも)をはじめ、勝頼の娘・貞姫や武田家にとっての裏切り者ともいうべき小山田信茂の養女・香具姫(天光院殿)など、武田家ゆかりの幼子たちであった。見守るのは、12人の御寮人衆と6人の侍女や下僕たち。前述の窪田獅子之助は実在の人物ではないものの、獅子之助同様、命を賭して彼らを守り抜こうとした人々がいたことは間違いないだろう。

 

 ともあれ、一行が目指したのは、北条氏の領地・八王子であった。確約があったわけではなかったが、勝頼の姉が北条氏政の夫人(黄梅院)で、勝頼自身も氏政の妹(北条夫人、桂林院殿)を娶っていたところから、北条氏を頼れば何とかなるだろうとの、わずかな望みに賭けたのだ。

 

 新府城を出立したのは3月3日。その6日後の9日に塩山向嶽寺に到着したところまでの足取りは明確であるが、その後の逃走ルートは、実のところ諸説あって定かではない。相模との境にある案下峠(和田峠、標高660m)を越えて武蔵国多摩郡恩方(八王子市)の金照庵(現八王子市立恩方第二小学校)へ退避したのだろうという説が有力であるが、その途上にあたる田野から八王子にかけては、織田方に寝返った小山田氏の領地にあたるため危険。それを考慮して、檜原方面へ向かったのではないかとの見方も見逃せそうもない。彼女の名を冠した松姫峠はいうまでもなく、石丸峠や佐野峠、西原峠、笛吹峠、大鹿峠、大菩薩峠、風張峠等々、彼女が辿ったと言い伝えられる峠も各所に点在。松姫が山越えで足から血が流れ出たことから藤の花が赤く染まるようになったという西原の伝説や、彼女が飯尾近くの岩窟で夜を明かしたとも語り継がれるなど、彼女にまつわる言い伝えも少なくないのだ。

 

 おそらく、人目につく昼間を避けて暗闇だけの山歩きだったのだろうが、そのあたりの苦労は、前述の書を通じて思い計るのが良さそうだ。ともあれ、出立から1ヶ月半後の416日、ようやく恩方高留の金照庵に到着。ここまで命を永らえることができたことに、ひとまずホッとしたに違いない。

 

■婚約者・織田信忠が自害したことで尼に

 

 しかし、それも束の間、結局は織田方に居所を突き止められて使者が送り込まれてきた。彼女の命もここまでか…と思いきや一転、使者の用件は、かつての婚約者であった織田信忠からの輿入れの申し出であった。松姫が信忠と婚姻の約束を交わしたのは、信玄がまだ存命の頃の1567年のこと。武田・織田同盟の補強として、信玄の四女・松姫(7歳)と信長の嫡男・信忠(11歳)の婚約が成立していた。しかし、その翌年、信玄が信長と同盟を結んでいた家康に攻撃を仕掛けたことから婚約破棄に至ったという経緯があった。

 

 それから10数年も経つというのに、信忠が未だ自分に心を寄せていてくれたことに、松姫の心も、少々浮き足立ったに違いない。武田家を滅亡に追いやった憎しみとの狭間に心が揺れたことは間違いないだろうが、引き連れてきた子供達のことを慮れば、信忠の要求を受け入れないわけにはいかなかった。ひとまず身支度を整えて、西方へと向かったのである。

 

 しかし、ここでとある事件が起きた。いうまでもなく、本能寺の変である。6月2日早朝のこと、明智光秀が謀反を起こして、信長を自害に追い込んだのだ。この時、妙覚寺に滞在していた信忠も、二条御新造へ移って奮戦したものの耐え切れず、ついに自刃。途上でその悲報を受けた松姫も、詮方なく恩方に戻ることになったのだ。

 

 こうして松姫の後半生は、八王子の地ではじまることに。同年秋には北条氏の庇護のもと心源院へと移って出家、信松尼を称したという。ここで織物(後の八王子織)を織るなどして生計を立てていたと言い伝えられている。

 

 一族存続のために織田信忠へ嫁がされそうになった松姫であったが、信忠の死後は尼となって静かに余生を過ごした。多くの親族を喪い、その菩提を弔う日々であったことを鑑みれば、それを平穏無事と評することはできそうもない。彼女の心の内は、いったいどのようなものだったのだろうか?

イメージ/イラストAC

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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