史実からみる「豊臣秀長」と「豊臣秀吉」の兄弟仲はどのようなものだったのか⁉ ─交友関係から見る秀長の人物像─【「豊臣兄弟」最新研究】
豊臣兄弟の真実#04
■豊臣秀吉は生涯にわたって弟・秀長に全幅の信頼を置く

長浜城。豊臣秀吉が戦功によって滋賀・長浜城主になった際、秀長は城および領土の守備を任される城代を務めたという。
豊臣秀長は豊臣秀吉の陰に隠れて印象が薄いと思われがちだ。しかし秀長は豊臣政権を支える最重要人物であるため、いわゆる戦国大名との折衝(せっしょう)はもとより、千利休をはじめとした文化人との交流など、その交友関係は幅広い。
兄・秀吉は若い頃に尾張国を出て武家奉公していたようだが、いつしか尾張国に舞い戻り、伝手(つて)を頼って低い身分ながら信長に仕え、その献身的な奉公が実り、徐々に出世していった。
一方の秀長については、そうした伝承すらなく、信憑性の低い史料には秀吉の家臣として頭角を現していったという記述が多い。しかし、秀長の前名は「長秀」であり、これは織田信長から「長」の偏諱(へんき)を受けたものと推測される。秀長は秀吉とは別個に信長の直臣(じきしん)となって出世していった可能性もある。
信頼できる史料に秀長が登場するのは、秀吉が北近江の浅井氏滅亡後に浅井の旧領を信長から拝領した時期と重なる。これをもって秀長は秀吉の家臣とする理解もあるが、一時的なものだった可能性もある。天正2年(1574)の長島攻めの時、信長軍の中に秀長の交名(きょうみょう)が見える。秀吉は参陣していないため、秀吉の名代(みょうだい)として従軍したという見方があるが、秀長が秀吉の直臣だったという思い込みからの推測に過ぎず、信長の直臣として従軍した可能性もある。
また、秀吉の初期の家臣を考察する上で重要な史料に『竹生島奉加帳』(ちくぶしまほうがちょう)があるが、これに秀長の名前は見えない。その後、安土城普請の手伝いを命じた秀吉の書状にも登場しない。ようは、秀長は秀吉の直臣ではなく、信長の直臣であり、身分的には秀吉と同格だったということである。信長の直臣として秀吉の与力となった契機は、天正5年から開始された秀吉の中国攻めだろう。
この時期に秀吉が黒田孝高(くろだよしたか)に宛てた書状中に、孝高については私の弟の「小一郎め同然に心やすく存じ候」と認(したた)めている。孝高を信頼しているという意味だが、この文章には弟・秀長への信頼が当然の前提としてあったことも窺える。秀吉の中国経略戦で秀長は主に但馬(たじま)や因幡(いなば)方面を受け持ち、遊撃軍的に丹波(たんば)などへも出陣して秀吉を支えた。信長家中において兄弟で一国以上を領知している武将は皆無であり、その意味でも稀有(けう)な兄弟でもあった。
本能寺の変後も、秀長は山崎の戦い、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州平定戦などに従軍して武功を挙げている。天正13年の四国攻めでは病に罹った秀吉に代わって総大将を務めて長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏に追い込み、九州攻めでも実質的な総大将として島津義久を降伏させる大功を挙げた。
秀長は病のため小田原攻めには参陣できず、京都で留守居を務めたが、その間、秀吉は秀長の病を心配する手紙を認めている。秀吉は凱旋(がいせん)後には郡山城に秀長を見舞い、また、各地の神社に本服祈願(ほんぷくきがん)の祈祷を要請して回復を祈った。
秀長は、秀吉から叱責(しっせき)されることもあったが、秀吉が最も信頼した家臣であった。
監修・文/和田裕弘