桶狭間の戦い?美濃攻略戦?「豊臣秀長」の名前が初めて登場する“戦い”はなんの戦い⁉ 【「豊臣兄弟」最新研究】
豊臣兄弟の真実#02
■兄・豊臣秀吉に従い、美濃各地の戦闘に参加

豊臣秀長(東京都立中央図書館蔵)
豊臣秀長(とよとみひでなが)が、兄・豊臣秀吉に呼ばれて織田軍団の一員に加わり、秀吉の下でいつから戦いに出るようになったのかははっきりしていない。ただ、秀吉が戦功をあげはじめるのが永禄7年(1564)ないし翌8年あたりからなので、その頃と思われる。
秀吉は、尾張(おわり)・美濃(みの)国境にあって斎藤方の部将である美濃松倉城(岐阜県各務原市)の坪内利定(としさだ)を寝返らせることに成功し、さらに秀吉は、この坪内利定を案内役として斎藤方部将の誘降(ゆうこう)をはかっている。そのとき、鵜沼(うぬま)城(岐阜県各務原市)の城主・大沢基康(もとやす)の誘降に成功し、近くの猿啄(さるばみ)城や堂洞(どうほら)城も落としているが、これらの戦いに秀長が加わっていたかどうかはわからない。ただ、永禄8年の美濃稲葉の巾上(はばがみ)合戦や加納表(かのうおもて)の戦いには参陣していたと伝えられている。
このころ秀吉は、濃尾国境付近の蜂須賀小六(はちすかころく)ら土豪を味方につけるべく動いており、秀長が彼らの説得工作に当たったことは考えられる。そして秀吉は、この蜂須賀小六らを使って翌永禄9年、墨俣(すのまた)城(岐阜県大垣市)築城に成功したといわれてきたが、そのことが信長の詳細な伝記である『信長公記(しんちょうこうき)』に見えないため、存在そのものが疑問視されている。
しかし、このころ、美濃攻めのための足がかりが秀吉・秀長兄弟の働きによってできたことはたしかで、それが翌10年の稲葉山城奪取につながる。『絵本太閤記』では、この稲葉山城攻めで秀長が大活躍をしたとするが、『絵本太閤記』の信憑性から考えると、それは疑わしい。
このあと、信長が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛の軍を起こしたとき、秀吉が近江の六角承禎(ろっかくじょうてい)の支城・箕作(みつくり)城(滋賀県東近江市)攻めで大活躍したことが知られているので、秀長の働きがあったものと思われる。
監修・文/小和田哲男