×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

謎に包まれた「豊臣秀長」の出自! 秀吉と異父説⁉ 秀長の生年・生誕地に関する史実とは【「豊臣兄弟」最新研究】

豊臣兄弟の真実#01

 

豊臣秀長の生誕地候補とされる中村公園にたつ「日吉丸(豊臣秀吉の幼名)となかまたち」の像。秀吉の少年時代とその仲間たちをモチーフとした銅像。

 

■豊臣秀吉との異父説についても考察!秀長の生年・生誕地に関する史実とは

 

 羽柴秀長(はしばひでなが)は、天下人羽柴(豊臣)秀吉の弟として、天文9年(1540)3月2日、尾張国中村(愛知県名古屋市中村区)で誕生したといわれる(天文10年説もある)。通説では父は竹阿弥(ちくあみ/筑阿弥とも)、母は「なか」(後の大政所、天瑞院殿)とされ、兄秀吉の父は木下弥右衛門(きのしたやえもん)であったので異父兄弟とされてきた。

 

 この通説の根拠とされているのが『太閤素性記(たいこうすじょうき)』という記録である。この記録は、17世紀後半に江戸幕府旗本・土屋知貞(つちやともさだ)が編纂したものである。これに対し、秀吉と同時代を生きた小瀬甫庵(おぜほあん)の著書『太閤記』や、近世前期に成立したと推定される『祖父物語』には、秀吉・秀長ともに父は「筑阿弥入道」とあり同父兄弟とされているのだ。

 

 近年指摘されているのは、『太閤素性記』に秀吉の実父とされる織田信秀(のぶひで)家臣木下弥右衛門について、①「木下」名字を使用したというのは信じがたい、②織田の鉄砲足軽であったというが信秀時代に鉄砲は実戦配備されていない、③弥右衛門の没年は天文12年とされるがこれでは鉄砲使用と時期があわないばかりか、④すでに秀長が誕生しているため異父であるという記述と矛盾する、などである。

 

 こうした問題点を踏まえたうえで近年論じられているのは、①秀吉・秀長は同父兄弟である可能性が高いこと、②実父は「妙雲院殿栄本(みょううんいんでんえいほん)」という戒名(かいみょう)が伝えられる人物であり、③没年は天文12年8月2日であること、などである。そのため、弥右衛門と竹阿弥は同一人物であり、織田家に仕官していたが何らかの理由で致仕(ちし)し百姓をしていたと推定される。

 

 また、竹阿弥の二人の妹は、青木重矩(あおきしげのり)と福島正信(ふくしままさのぶ)にそれぞれ嫁ぎ、青木重吉(しげよし)と福島正則(まさのり)が誕生していることから、竹阿弥は貧農ではなく武家奉公を行う上層の百姓(在村被官・軍役衆)であったといわれるようになってきた。

 

 これは秀吉・秀長兄弟の生母・天瑞院殿(大政所、以下同)も同様である。彼女の名前は「なか」といわれるがこれは江戸時代の創作であり確実な史料では確認できない。大政所は御器所村(ごきそむら)の出身とされ、彼女の従姉妹が加藤清忠(かとうきよただ)に嫁ぎ加藤清正(きよまさ)を生んでおり、竹阿弥と同じく上層の百姓で武家奉公をするような階層の出身と指摘されている。

 

 このように、秀吉・秀長兄弟の父母は、村の上層百姓であり、大名家に仕官して軍役奉公を果たしていた階層であった。ところが兄弟の運命を変えたのが父竹阿弥の死である。それによって家は傾き、秀吉は様々な職を転々として生きて行かざるを得なくなったわけだ。

 

 次に、秀吉・秀長兄弟の生誕地について述べよう。彼らの生誕地は、中村であることは著名であるが異説もあり、『祖父物語』は清須城下で誕生したように記述していて、しかも秀吉の伯父が焙烙(ほうろく/土鍋)売り、叔母婿・杉原家次(すぎはらいえつぐ)が連雀商人であり、商人(非農業民)であって農人ではないとされ、これを重視する研究者も少なくない。

 

 ただ、清須城下出身説は検証できず、甫庵の『太閤記』を始めとする記録では中々村出身ということになっている。なお、中村は中世では「中村三郷」と呼ばれ、上中村、中々村、下中村に分立していたらしい。秀吉の誕生地は『太閤記』では中村、『太閤素性記』では中々村とされている(ちなみに秀吉生誕伝承地は旧下中村に属している)。

 

監修・文/平山優

 

歴史人2026年2月号「豊臣兄弟の真実」より

KEYWORDS:

過去記事

最新号案内

『歴史人』2026年2月号

豊臣兄弟の真実

秀吉・秀長兄弟による天下統一は、どのようにして成し遂げられたのか? 大河ドラマ「豊臣兄弟!」などの時代考証者らによる座談会や、秀長の生涯を追いながら、その全貌をひも解く。