【地図でみる三国志】もっとも中国大陸を縦横無尽に走り回った梟雄とは? 走り抜けた直線距離はなんと2000km以上!
ここからはじめる! 三国志入門 第128回

劉備のあゆみを番号順に示した、後漢時代末期(194~220年)の中国大陸の地図(14州の州境図)。地図制作:ミヤイン 参考:『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』、『中国歴史地図集 第三冊 三国・西晋時期』中国地図出版社
■『三国志』の立役者にして真の主人公
三国志の主人公といえば、大抵は曹操や諸葛亮(あざな:孔明)が注目されがちだ。実際、吉川英治版にしろ、人形劇三国志にしろ、2人のカッコよさは群を抜いている。しかし三国志を「物語」として見た場合、やはり真の主役は劉備(あざな:玄徳)なのである。
諸葛孔明を表舞台に引っ張り上げた「三顧の礼」や「北伐」、曹操の南部侵攻を挫いた「赤壁」や「漢中」の戦い、ヤクザの契りみたいな「桃園の誓い」(演義)などなど、いずれの名場面も劉備なくしては成立していないからだ。
小説『三国志演義』などに触れた方は、よく『西遊記』の三蔵法師みたいな聖人ヅラする劉備に、いら立ちを覚えたかもしれない。しかし歴史書『三国志』に書かれる劉備はかなりの荒くれ者で、親分肌な性質もあわせ持つ人だ。
そんな彼の人生は、まさに波乱万丈。しかも前半生は拠って立つべき場所も持たず、中国各地をわたり歩いた。『三国志』の英雄中、もっとも大陸を縦横無尽に走り回った男といえよう。そして、荒くれ者の軍団を束ねた彼は不思議と行く先々で歓迎を受けた。
今回は、中国大陸をまたにかけた、劉備の行動範囲を、ざっと追っていこう。地図もあわせてお読みいただきたい。
①161年 涿県(現在の北京より少し南)で誕生
184年 黄巾の乱。関羽、張飛を連れ旗揚げ(24歳)
②187年 中山国安熹県の尉に任命される
劉備の生誕地は中国北部の幽州にあった涿郡・涿県(たくけん)。ここで旗揚げして手柄を立て、安熹県(あんきけん)の尉(い)、警察署長のような任務についた。ところが都から派遣された巡察官(督郵/とくゆう)が気に喰わず、200回も殴りつけて逃亡したというエピソードがある。
③191 公孫瓚の元へ身を寄せ平原国の相となる
④194 陶謙の後を継いで徐州(下邳郡)を治める(34歳)
その後、劉備は同門で学んだ公孫瓚(こうそんさん)のもとへ。平原国で役に就いたが、そのとき自分を狙っていた暗殺者をも手なずけてしまったそうだ。さらに、縁もゆかりもなかった陶謙(とうけん)から徐州を譲られたのは、ただごとではない。いずれも彼の「人徳」と説明するしかあるまい。
⑤195 呂布に徐州を奪われ小沛(沛県)に移る
<下邳城の戦い=対 呂布>
⑥199 曹操とともに許昌へ入り左将軍に任命される
⑦200 曹操に敗れ、冀州の袁紹のもとに身を寄せる(40歳)
<官渡の戦い=対 曹操>
⑧200 汝南郡へ派遣され、曹操に反乱を起こす
このあたりは呂布と戦ったり、曹操に降るも結局裏切ったり、本格的な戦乱にもがいていた頃。官渡の戦いでは曹操の背後を脅かすゲリラ戦まで行ない、劉備こそ乱世の申し子だったといえる数年間だ。生き残っただけでも凄い。
⑨201 劉表を頼り、荊州の南陽郡新野県に駐留
<博望坡の戦い=対 夏侯惇>
<三顧の礼=諸葛亮(孔明)を迎える>
⑩208 当陽県・長坂で曹操軍に追いつかれ大敗
⑪208 孫権と同盟を結び、江夏郡・鄂県の樊口に駐屯(48歳)
<赤壁の戦い=対 曹操>
200年代は、その後半まで雌伏の時を過ごした。いざ曹操の侵攻を受けると南へ逃れ、逃亡先で起死回生ともいえる孫権との同盟。外交戦略で孫権軍を動かし、曹操の侵攻をはね返した。まさに梟雄(きょうゆう)。その真骨頂といって良い。
⑫209 孫権に荊州数郡を貸与され、南郡の公安県を治める
⑬210 揚州の呉郡の京城(京口)に赴いて孫権と会見
⑭211 益州の綿陽・涪県(涪城)で劉璋と会見
⑮211 葭萌県に駐屯
<益州攻略=対 劉璋>
⑯214 益州の蜀郡・成都に入城(54歳)
赤壁の戦いを制したのちは、ちゃっかりと荊州南部を領有。孫権側は「貸した」と思い込んでいたが、劉備の思わくは「借りた」けど、借りたものは俺のもの。その荊州南部と益州(蜀)の両取りを実現してしまった。
ちなみに、劉備は呉の京城まで出向いて孫権に会っている。曹操と孫権は顔を合わせたことがないが、劉備は両方の顔を知っているのだ。
⑰219 漢中郡を奪い、漢中王を名乗る(59歳)
<定軍山の戦い=対 曹操>
⑱222 呉討伐に出兵、荊州の宜都郡・猇亭(おうてい)まで進軍
<夷陵の戦い=対 陸遜>
⑲223 夷陵で敗れ、滞在先の白帝城で没する(63歳)
劉璋(りゅうしょう)から蜀を分捕り、漢中をめぐり曹操と戦い、ついにガチ対決で破る。まさに219年は劉備の人生のピークだった。しかし、それも長く続かず、関羽の敗北で荊州が失われる。とり返そうと呉を攻めたが、名将・陸遜(りくそん)にしてやられる。そこで人生の幕を下ろした。

219年、劉備が漢中をとり、関羽が健在だったころの勢力図。夷陵の戦いの3年前。地図制作:ミヤイン 参考:『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』、『中国歴史地図集 第三冊 三国・西晋時期』中国地図出版社
没した地は白帝城。現在の四川省奉節県だ。ちなみに、現在の北京から白帝城跡まで、移動距離にして約1500km。そこを経由して四川省の成都(蜀の都)まで2200kmほどになる。
■日本列島の北から南までとほぼ同じ
じつは、この距離は日本列島の移動距離と同程度で、北海道の札幌から九州の鹿児島までが約2400kmある(中国大陸は広いが意外に日本も広いのである)。もし、これを時速4kmで歩いて毎日24km進めるとして、到着まで100日かかる計算だ。北海道に生まれ、晩年は九州に定住したようなものか。しかし現代と違い、当時は外国に移住するような感覚であっただろう。
「劉備を解き放てば、きっと変事が起こりますぞ!」(郭嘉)
「劉備には梟雄としての資質があり、いつまでも人の下にいるような者ではない」(周瑜)
「こいつが、一番信用ならないのだぞ!」(呂布)
劉備の生涯を振り返ると、同時代の英雄たちの叫びが聞こえる。この言葉のとおり、劉備の生涯は万事そんな調子だった。前半生は逃げることも多かった劉備だが、何度も死線をくぐり抜け、ついには蜀の皇帝にまでなった。曹操が奸雄(かんゆう)なら、劉備は梟雄(きょうゆう)と呼ぶにふさわしい。
彼が苦労してつくった蜀の国は、次の劉禅の代でもろくも滅びたが、魏も呉もほぼ共倒れといえた。劉備が活躍した40年間は『三国志』の歴史そのもの。中国大陸がドラマチックに動いた時間だったといえよう。