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戦国一有名な兄妹【織田信長とお市】の実際の人間関係はどのようなものだったのか⁉ 史実から見る戦国の兄妹物語―「豊臣兄弟」最新研究―

豊臣兄弟の真実#03

 

清州に立つ「織田信長」像と福井に立つ「お市」像

 

■戦国一有名な兄妹の親密さは希薄!?

 

 戦国時代の兄妹として、織田信長とその妹の市は有名であろう。しかし、信長と市は兄妹とはいっても実は年齢が離れている。信長は天文3年(1534)の生まれ、市は天文16〜19年頃の誕生と考えられている。したがって、ふたりの間には15歳ほどの年齢差があり、兄妹といっても年の離れた関係にあったことを押さえなければならない。

 

 また、信長の母は土田氏で、同母弟に信成(初名は信勝、一般には「信行」の名前で知られる)・信兼(信包)がいる。一方、市の母はその出自がわからないが、信長とは母が違うことは間違いない。

 

 戦国時代において、母が異なる兄弟とは「他人」である。ましてや、信長は織田弾正忠家を継ぐ嫡男にあった。母の違う妹の市は、家督相続予定者の信長に仕える立場にある、ひとりの従者としての「妹」にすぎなかった。

 

 したがって、この兄妹の間には本来は親愛の関係はないことを、まずは確認しておかなければならない。

 

■政略結婚の末、実家と嫁家が激突してしまう

 

 そのような信長と市の兄妹関係に変化が起きたのが、市と近江国小谷(滋賀県長浜市)の有力国衆・浅井長政(あざいながまさ)との婚姻である。市と長政の婚姻時期については、諸説あるが、織田・浅井両家の置かれた情勢を鑑みると、永禄10年(1567)のことであろう。この時、信長は同年9月に美濃平定を成し遂げ、岐阜城(岐阜県岐阜市)を居城としたうえ、足利義昭を擁しての畿内平定と室町幕府政治の再興(「天下布武」)へと動き始めていた。

 

 一方、浅井長政はかつての従属先で離反した近江・六角家と対立し続けていて、新たに美濃国を勢力下とした信長と敵対することは、東西両面で敵対勢力と対峙することになる状況にあった。この事態の対応として、浅井家側から織田家に同盟が持ちかけられたのだろう。信長は、その両家の同盟関係を、足利義昭を擁しての上洛にあたってさらに確固とすべく、当主・浅井長政に市を正妻として遣わしたのである。

 

 この時の市の立場に注目したい。浅井長政に嫁いだ市について、江戸時代の編纂物では信長の妹としてではなく、「養女」として嫁いだという説がある。この時、長政は数え年で23歳、信長には長政と年相応の娘がいない。そこで白羽の矢が立ったのが、ちょうど年頃の妹の市であり、信長の「養女」として嫁いだとみると整合性がつく。すでに指摘があるように、その後の市の立場からみても、養女とみた方がよい。長政との婚姻は、市が信長の養女として、織田・浅井両家の同盟関係を揺るぎない強固なものとする目的になされたのであった。

 

 その後、市と長政との夫婦関係は、茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(ごう)という3女が永禄12年から天正元年(1573)までの間に生まれていることに注目すれば、良好であったととらえることは誤りではなかろう。しかし、この間に織田・浅井両家は敵対関係に転じる。そのなか、市は浅井家に嫁いだ人間として過ごす。これは、市による独特の姿勢ではない。戦国の女性としてのあるべき姿であり、市はその姿を天正元年9月の浅井家滅亡の時まで貫いたのである。

 

監修・文/柴 裕之

 

歴史人2026年2月号「豊臣兄弟の真実」より

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