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そもそも「関白」ってどうやって生まれた!? 豊臣秀吉が欲しがった権威は、藤原氏のハラスメントと天皇の忖度から生まれた?

忖度と空気で読む日本史


 

■秀吉も任命された「関白」とは

 

 NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」が好評を博している。秀吉といえば「天下人」「サル」「人たらし」といったワードがイメージされるが、「関白」「太閤」をあげる人も多いのではないだろうか。

 

 関白とは「天下の万機を関(あずか)り白(もう)す」という意味で、成人した天皇に代わって、政務を取り仕切る官職である。天皇が幼少の場合は摂政(「天下の政を摂行する」の意)として政治を代行する。太閤は摂政・関白の地位を子に譲った人に対する尊称だ。いずれも律令制に規定のない令外官(りょうげのかん)であるが、平安時代半ばに誕生してから、幕末に王政復古の大号令によって廃止されるまで、朝廷における最高の官職であり続けた。

 

 関白職は初代の藤原基経(もとつね)が任じられてから700年以上、藤原氏が独占してきたが、近世初頭、天下人を目指す羽柴秀吉が摂関家の内紛を利用して、なかば強引に関白になった。その背景に、秀吉に対する五摂家筆頭・近衛家の忖度があったことは、前回の本コラム「史上初めてとなった豊臣関白家創出の「舞台裏」と近衛信尹の悲哀 秀吉は近衛家の「忖度」によって武家初の関白となった?」で紹介したとおりだ。

 

 面白いのは、関白という地位そのものが、藤原氏に対する天皇の忖度によって生まれたことだ。その経緯を語ることが今回のテーマである。

 

■天皇を屈服させた藤原基経のハラスメント

 

 関白の誕生を見る前に、まず摂政の成り立ちを振り返っておく必要がある。摂政は9世紀半ば、9歳の清和天皇が日本初の幼帝として即位した際、外祖父である太政大臣・藤原良房(よしふさ)が政務を取り仕切ったことに始まる。次の陽成天皇も同じく9歳で即位したため、良房の養子・基経が清和上皇により摂政に任じられた。

 

 ところが、陽成はわずか17歳で退位してしまう。その原因は、陽成が宮中で乳母の子を殴り殺したためとも、政治への意欲が高く基経に疎まれたためともいわれる。真相は不明だが、基経の主導によって退位させられたことは事実である。

 

 代わって基経が擁立したのが55歳の光孝天皇だった。母の出自が低く、年齢的にも即位の可能性のうすかった光孝は感激し、基経に「今日から万政をつかさどり、天皇を輔弼し、百官を指揮せよ、奏上・下命すべきことは必ず最初に基経に諮問せよ」という勅命を下した。これが事実上の関白の成立といわれている。

 

 この地位は光孝の子・宇多天皇の代にも受け継がれた。宇多は即位後「巨細にわたって百官を指揮し、案件はみな太政大臣(基経)に関(あず)かり白(もう)し、その後に奏上・下命せよ」という詔を出した。「関白」の初見である。

 

 宇多も父同様、基経に忖度して関白の地位を与えたわけだが、基経はこれを辞退する。といっても、これはあくまでポーズにすぎない。朝廷では公卿が大臣などに任命された際、3度辞退するという慣例があり、それにならっただけである。

 

 だが、宇多が側近の橘広相(たちばなのひろみ)に起草させた再要請の勅命に、基経を「阿衡(あこう)」に任じるという文言があったことで事態は紛糾する。阿衡とは中国の殷王朝に仕えた伝説の名宰相・伊尹(いいん)の官職であるが、具体的な職務はない。この文言に着目した基経は、自分を名誉職に祭り上げて実権を奪うつもりだろうと難クセをつけ、政務をボイコットし始めた。

 

 この背景には、天皇の外戚をめぐる争いもあったといわれる。藤原氏は奈良時代から、天皇に娘を入内させ、娘の生んだ皇子を即位させることで権力を掌握してきた。ところが、宇多は光孝の崩御直前に急遽、皇太子にたてられたため、藤原氏にとっていわばノーマークの存在であり、基経との間にも縁戚関係はなかった。

 

 一方、橘広相は早くから宇多に娘を嫁がせ、すでに2人の皇子をもうけていた。おそらく、広相に基経を閑職に追いやろうという意図はなく、単に中国の古典知識をひけらかしたかっただけなのだろう。しかし、外戚の地位をねらえる立場にいたことから、足元をすくわれる結果になったのである。

 

 結局、宇多は阿衡の文言は不適切であったとして広相を処分し、基経の娘・温子(おんし)を后に迎えることで決着をつけた。しかし、その後も宇多は基経に実権を握られ、在世中は内裏に入ることすらできず、ついにED(原文は「玉茎不発」)になってしまったというから痛ましい。

 

 そんな基経のハラスメントに対し、宇多が恨みを募らせたことはいうまでもない。基経の死後、宇多は関白をおかず、学者の菅原道真を右大臣に任じて藤原氏を牽制した。次の醍醐天皇も基経の子・時平(ときひら)を重用したものの関白には任命せず、延喜(えんぎ)の治と呼ばれる親政をしいた。

 

 ようやく摂政が復活したのは時平の弟・忠平(ただひら)の時代である。8歳の朱雀天皇が即位したことで、伯父である忠平が基経以来、50年ぶりに摂政となり、朱雀の成人後は引き続き関白をつとめ、摂関政治を定着させていくのである。

 

豊臣秀吉/国立国会図書館蔵

 

 

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京谷一樹きょうたに いつき

日本史とオペラをこよなく愛するフリーライター。古代から近現代までを対象に、雑誌やムック、書籍などに幅広く執筆している。著書に『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)、執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『「外圧」の日本史』(朝日新書)などがある。

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