豊臣政権に対する意図的な“サボタージュ”で石田三成に詰められる島津義久 兄に振り回され、孤軍奮闘する島津義弘の苦悩
忖度と空気で読む日本史
島津義久・義弘兄弟は、九州平定を目前にして豊臣秀吉に屈服したが、その後の政治的立場は対照的だった。義久が国元の家臣に忖度して豊臣政権に非協力的な態度をとる一方、義弘は御家存続のために政権への忠誠を貫いた。九州の名門・島津氏はどのように天下人と折り合いをつけ、近世大名として命脈を保ったのであろうか。
■サボりまくる島津義久と激怒する石田三成
島津義久と弟の義弘・歳久・家久が豊後・筑前まで版図を広げ、九州平定を目前にした天正15年(1587)が島津氏の最盛期であった。そこへ立ちはだかったのが、天下統一を目指す秀吉である。総勢25万という圧倒的な大軍の前に島津勢なすすべもなく敗れ、同年5月、義久は剃髪して龍伯と号し、秀吉に降伏した。
一方、義弘は講和を有利に運ぶため、豊臣勢との決戦を覚悟していた。兄の出家を知っても容易に屈服しなかったが、豊臣秀長からの再三の勧告によりようやく降伏したという。
潔く降伏した義久と往生際の悪い義弘――、というふうにも見えるが、戦後、豊臣政権に忖度しまくったのは義弘の方であった。いったん降伏した以上、島津家存続のために政権に忠誠を示すべきと、腹をくくった義弘のほうがよほど潔いといえよう。
実際、義久には弟ほどの覚悟はなかったようだ。降伏後、島津家には豊臣政権から、さまざまな要求が突き付けられたが、家臣たちは既得権益を守るために非協力的で、義久も家臣たちに忖度して厳しい処断を下そうとしなかった。
義弘が義久の代わりに上洛しようとした際も、国元の家臣は供をせず、上洛費用の捻出も渋る有様で、義弘は借金をして在京費用を賄うしかなかった。
刀狩りも形ばかりで、取次の石田三成から叱責される体たらく。焦った義弘は「薩摩の長刀は上方でもよく知られている。短い刀だけでは疑われるので、長い刀も含めてできるだけ数を集めよ」と国元に命じている。
万事こんな調子であったから、三成が島津に冷淡になるのも無理からぬことであった。義弘は天正17年(1589)4月の書状で、それまで親切に指導してくれていた三成が突如、豹変したことを記している。
「降伏以来、取次の三成と細川幽斎がいろいろ相談に乗ったのに何一つ達成できていない。これは義久にやる気がないからではないか、無駄なことを言ったものだと三成は後悔し、島津家の存続は難しいと繰り返し述べている。竜様(義久)も私(義弘)も国元の家臣に同意して、豊臣政権の用務をないがしろにしていると三成は聞いているということだ」
手紙では、義弘も三成の批判の対象になっているが、それは義弘が兄に忖度して連帯責任としたものだろう。三成自身は旧態依然とした島津家臣団とそれを容認する義久が元凶であることを認識していた。
■島津家の実質的な「当主」となっても兄を立て続けた義弘
それでも、義久や家臣たちの態度は一向に改まらない。文禄の役では、義弘は第4軍に加わったが軍船が薩摩から送られず、義弘は船を借りて壱岐・対馬に渡らねばならなかった。義弘は国元へ書状を送り「龍伯様のため、御家のためを思い、身命を捨てる覚悟で名護屋城に到着したのに船が来ない。日本一の遅陣になり面目を失いました」と思いのたけをぶつけている。
三成が命じる太閤検地も遅々として進まない。島津家きっての親豊臣派である伊集院忠棟(ただむね)の主導によりようやく行われたが、義久は地侍や百姓に忖度して検地結果を無視する構えを見せた。
業を煮やした豊臣政権は、文禄4年(1594)、大胆な手段に出る。領地宛行を命じる秀吉の朱印状を義弘に発給し、島津家の実質的な当主としたのだ。給地替えも行われ、義弘には島津氏の本拠・鹿児島が与えられ、義久は大隅の富隈城(とみくまじょう/鹿児島県霧島市)に移された。
それでも義弘は兄に遠慮して、自身はそれまで同様、大隅国帖佐(ちょうさ/同姶良市)にとどまり、義久の養子となった3男・恒忠(のちの家久)を鹿児島に送った。義弘には、兄にとって代わる気持ちなど毛頭なかったのである。このような義弘の態度が、島津家に致命的な内紛をもたらすことなく、近世大名へ飛躍させる力になったのだろう。
関ヶ原の戦いで、島津家は西軍についたため、戦後家康の厳しい追及を受けた。家内は徹底抗戦を説く義久派と、恭順して上洛すべきとする義弘派で意見が割れたが、最後は当主の家久が上洛し、家康に恭順することで島津家は存続を許される。
一方、義久は再三にわたる家康の上洛命令をのらりくらりとかわし、慶長16年(1611)に亡くなるまで九州を離れなかった。義弘・家久の苦労がしのばれるが、信念を貫き通した義久の生き様もあっぱれというべきであろう。

島津義弘銅像