天下人・織田信長が「織田木瓜」に込めた狙いとは⁉ ─三英傑の名字と家紋戦略─
名字と家紋の日本史#02

織田信長像
■「織田木瓜」と織田家─その謎多き由来─
織田信長の祖先は、越前国織田荘(福井県丹生郡越前町一帯)を本貫とする武士で、越前二宮として知られる劔(つるぎ)神社の神職も兼ねていた。室町時代には、越前守護の斯波(しば)氏の被官となっている。そして、斯波氏が尾張守護を兼ねるにあたり、尾張守護代として入国したのだった。
織田氏の出自については不明である。実際には忌部(いんべ)姓であったとみられているが、少なくとも室町時代には藤原姓を称していた。信長自身も、家督相続前の天文18年(1549)11月付の熱田8か村宛て禁制に「藤原信長」と署名している。
このころに織田氏が用いていた家紋は、「織田木瓜(おだもっこう)」である。木瓜紋とは、地上の巣穴を象かたどった家紋のことをいう。この文様が御簾御帳を飾る帽額(もこう)という布帛(ふはく)に用いられていたため、木瓜の字があてられたらしい。織田氏の木瓜紋は、一般的な「五つ木瓜」よりも花弁が細く、特に「織田木瓜」と呼ばれる。
「織田木瓜」がいかにして織田氏の家紋となったのかについては、判然としない。朝倉氏と縁戚になったときに朝倉氏から贈られたとか、守護の斯波氏から拝領したとの説もあるが、後世の付会(ふかい)であろう。劔神社の神紋がもともと「五つ木瓜」で、それを家紋としたのではないか。
たしかに織田氏は尾張守護代であったが、信長の父・信秀(のぶひで)は、守護代織田氏の一族家臣にすぎない。「織田木瓜」を用いたのは、織田一族の正統な後継者であることを示すためであろう。
■天下統一を意識し「揚羽蝶」を使用
やがて信長は、天下統一を意識するなかで、「揚羽蝶(あげはちょう)」の家紋を用いるようになった。周知のとおり、「揚羽蝶」は平氏の家紋であり、信長は藤原姓ではなく平姓を称するようになったということになる。平姓を称したのは、当時、源氏と平氏が交替で政権を担うという源平交替思想が広まっていたためだと考えられている。具体的には、平姓の平清盛(たいらのきよもり)が太政大臣となったあと、源姓の源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を開いたが、実質的には平姓の北条氏が執権となり、その後、源姓の足利氏が室町幕府を開いた。だから、次は平氏が政権を担うという考え方である。
天正2年(1574)、信長が従三位(じゅさんみ)に叙された際、朝廷の記録である『公卿補任』には「平信長」と明記されている。また、信長が奉納したとされる太刀が、福井県敦賀市の八幡神社に残されているが、鞘(さや)の表裏に「揚羽蝶」の家紋が鏨彫(たがねぼり)されている。
このほか、信長は「永楽銭(えいらくせん)」を旗印にしていたらしい。遺物としては残されていないものの、「長篠合戦図屏風」などには描かれている。
永楽銭は、明の第3代永楽帝の時代に鋳造された銅貨であるが、そのころの日本では銭貨を鋳造していなかったため、貨幣として広く流通していたものである。これを家紋としたのは、一つには「永楽」の文字が縁起が良いということもあったろう。それだけでなく、銭貨の力で戦いに勝つという意味もあったものと思われる。
監修・文/小和田泰経