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ミイラ化したお寺がある!? 廃寺後に立派な本堂と門が復活!「でもお寺ではない…」

神社仏閣好きラノベ作家 森田季節の推し寺社ぶらり【第37回】


■全国に二つしかない幕府公認の縁切寺

 

 今回はある意味、お寺のミイラとでも表現できそうな場所を紹介します。

 

 場所は群馬県太田市の満徳寺(まんとくじ)。このお寺の所在地は現在の群馬県太田市徳川町。戦国時代、徳川家康が松平から徳川に改姓した由来の地「新田荘の徳川郷」に建っていて、土地柄江戸幕府の庇護も強く受けた尼寺でした。家康が祖先という設定にした一族が鎌倉時代、お寺の創建に関わっていた可能性が高いです。明治に入ると幕府の威光も消えて、明治初期に廃寺になっています。たんに明治に廃寺になった寺院なんて全国に腐るほどあるだろうと思われるかもしれません。ただ、この満徳寺、本堂も門も今も敷地に堂々と建っているんです。

どこからどう見ても立派なお寺です…

 門も本堂も残っているなら、寺院として細々と存続していたのだろうとか、あるいは近現代に復活したのだろうと思われるかもしれません。ですが、そうではありません。満徳寺の現在の立ち位置は「縁切寺(えんきりでら)満徳寺資料館」という名の資料館。本堂も門もお寺の廃絶後に復元されたものです。お寺にしか見えないけれど現在はお寺ではない、しかし本堂は立派に建っている――お寺のミイラと評したのはこのためです。

 では、このお寺、なんで資料館になり、さらには本堂まで復元されたのでしょうか。江戸時代を通じて幕府によって庇護された、非常に格式高いお寺だったからでしょうか? それもあるとは思いますが、もっと特徴的な点があります。満徳寺は縁切寺という、極めて特殊な意味合いを持つお寺でした。この場合の縁切というのは仏様が悪縁を断ってくれるといった信仰の範囲を超え、妻が夫と法的に離婚することを意味します。

縁切寺満徳寺資料館。中には「縁切・縁結厠」が設置されています

 縁切寺は「駆け込み寺」などとも言われます。これは妻が夫から逃げて駆け込んでくることに由来します。満徳寺は男子禁制の尼寺で、なおかつ幕府に大切に守られているお寺ですから、境内に妻が駆け込めば夫は入ることができないわけです。

 境内に入った妻は一定の事務手続きを行い、それが完了すれば男尊女卑の空気が強い江戸時代でも正式に離婚することができました。敷地内に建てられている博物館では縁切寺の離婚システムの紹介がされています。想像以上にシステムとして完成されていて、よくできているなと感心します。

 ちなみに江戸時代中期以降、幕府公認の縁切寺はこの満徳寺と鎌倉の東慶寺の二つだけだったそうです。少なすぎるし、しかも両方関東にあるので、たとえば西日本に住んでたらどうするんだよとか考えてしまうんですが、そのあたり本当にどうしていたんでしょうか?

 

 近くには大寺院の長楽寺や新田荘歴史資料館などの施設もあり、歴史好きの人なら一日楽しめます。新田荘歴史資料館では江戸時代に代々猫の絵を描いていた新田岩松氏の猫絵の展示も必見です! この記事を書いてる著者も猫絵クリアファイルを購入しました。

 

 

家康の孫娘・千姫のお墓。満徳寺で豊臣家と縁切りし、再嫁したと伝えられます

 

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過去記事

森田季節もりたきせつ

1984 年生まれ、兵庫県出身。作家。東北芸術工科大学特別講師。京都大学文学部卒業、京都大学大学院文学研究科修士課程中退(日本史学専修)。大学院在学中の2008年、『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』で第4回MF文庫Jライトノベル新人賞優秀賞を受賞してデビュー。主な著書に『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』(GAノベル)、『物理的に孤立している俺の高校生活』(ガガガ文庫)、『ウタカイ 異能短歌遊戯』(ハヤカワ文庫)などがある。

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