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松平定信よりヒドかった!? 水野忠邦が主導した“忖度なし”の「天保の改革」が大失敗に終わったワケ

忖度と空気で読む日本史

 


江戸の三大改革の一つ、天保の改革。老中・水野忠邦が主導したこの政策は、寛政の改革以上に厳しい規制がしかれたにもかかわらず江戸は不況に陥り、庶民の不満は沸騰。領地政策の失敗により、諸大名や旗本、大奥からも総スカンを食らってしまう。忖度なしの改革が招いた水野の末路とは。


“出世欲の鬼”水野忠邦、老中首座となり天保の改革に着手する

 

 天保12年(1841)、50年以上、将軍・大御所として君臨した11代将軍・徳川家斉が死去した。家斉の時代は化政文化が花開き、江戸文化が絶頂期を迎える一方、家斉の奢侈によって幕府経済は最悪の状態に陥っていた。

 

 これを苦々しく見ていた12代・家慶は、政治路線の転換を図る。改革のリーダーとなったのが、2年前に老中首座に就任した水野忠邦だった。

 

 忠邦と言えば、のちの改革の内容から、融通の利かない生真面目一辺倒の男に見えなくもないが、実際は出世欲の権化のような人物だった。唐津藩主時代、長崎警備のために領地から離れられないのは出世の障害になると考え、自ら10万石も石高の少ない浜松藩への転封を願い出て、家老が諌死する事件まで引き起こしている。

 

 もっとも、そこから出世街道をひた走り老中首座に上りつめたのだから、結果的にコスパの良い取引だったのかもしれないが、ほめられたものではない気もする。

 

 勇躍して改革に着手した水野が、最初に取り組んだのは、家斉時代に行われた三方領知替えの後始末だった。

 

 三方領知替えとは家斉死去の前年、出羽庄内藩酒井家を越後長岡に、長岡藩牧野家を武蔵川越に、川越藩松平家を庄内に転封することを命じたものである。その直後、費用負担を命じられた庄内藩で一揆が起こり、領民の訴えを聞いた酒井家が幕府に撤回を上申する事態となっていた。

 

 当時、諸大名の間には、先祖代々受け継いだ領地は、罪がない限り所替えされることはないという考え方が定着していた。そのため、家斉の死去を機に、諸大名から政策に対する不満が噴出。将軍・家慶は「先代の間違いを改める」という名目で撤回を命じる。諸大名を“鉢植え”のように動かすことができた時代は、遠い昔のことになっていたのだ。

 

 この時、水野忠邦が撤回に反対したことは注目に値する。大名にも忖度しない強気の政治姿勢が、後々、忠邦自身の首を絞めることになるのである。

 

 

「俺たちの領地に手を出すな!」大名・旗本の怒りを招いた上知令

 

 出だしでつまずいた忠邦は、失点を取り返そうとするかのごとく、厳しい改革を断行していく。改革に対する水野の思想が垣間見えるのが、江戸市中に出した倹約令である。あえて過酷な取り締まりを命じ、そのために江戸市中が衰えても構わないと断言したのだ。寛政の改革にあたって、松平定信が「武士が良くなっても、商人が衰微する改革は天下のためにならない」とクギを刺したのとは、エラい違いである。

 

 庶民は娯楽や休日、遊芸はもちろん、衣食住や冠婚葬祭、年中行事まで厳しい規制がかけられ、違反者は手鎖(てじょう)の刑に処された。庶民の最大の娯楽である寄席も摘発され、500軒から15軒まで激減。歌舞伎の江戸三座は、江戸から場末の浅草に移され、人気役者の7代目・市川團十郎は江戸から追放された。草双紙や読本、浮世絵などの出版物も弾圧され、人情本の為永春水(ためながしゅんすい)は手鎖50日、読本作者の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)は自殺に追い込まれたともいわれる。

 

 このように、貧しい庶民のささやかな楽しみを奪う水野の改革は、モノを奪うだけでなく、人間らしい生活を否定する非人道的なものであったと言えよう。水野は「浜松の悪魔外道」と罵られたという。

 

 加えて、株仲間(同業者組織)の解散、物価引下げ令などの経済政策も失敗に終わり、さらなる不景気が庶民の生活を圧迫したのだから始末におえない。

 

 続いて、水野は大名統制にも改革のメスを入れる。天保14年(1843)、江戸・大坂に発した上知令(じょうちれい)がそれである。譜代の小藩や旗本の領地約50万石を幕府の直轄にして、財政の安定、対外防備の強化を図る施策だ。

 

 代替地は用意されたが、領主たちが反発したのはいうまでもない。旗本の働きかけにより御三家の紀州藩・水戸藩が撤回を求めたほか、老中・土井利位ら幕閣や大奥まで反対に回る事態となったのである。上知令の対象地域には、土井利位の領地も含まれていたのだから反発を受けるのは当たり前。空気を読めないにもほどがあると言うしかない。

 

 結局、上知令は将軍の名のもとに撤回、忠邦は老中を罷免される。三方領知替えという前例がありながら、大名・旗本に忖度せず、先祖代々の領地を奪おうとした水野。その強引な手法が改革を頓挫させ、幕府の威信も傷つけることとなったのである。

 

 老中を罷免された夜、水野の屋敷前では数千人の江戸市民が鬨の声を上げて、邸内に石を投げ入れ、近くの辻番所を打ち壊したという。

 

水野忠邦を風刺したもの。伏せっている人物は源頼光に模した徳川家慶、その下の人物は、卜部季武に模した水野忠邦 国立国会図書館蔵

 

 

 

 

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京谷一樹きょうたに いつき

日本史とオペラをこよなく愛するフリーライター。古代から近現代までを対象に、雑誌やムック、書籍などに幅広く執筆している。著書に『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)、執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『「外圧」の日本史』(朝日新書)などがある。

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