「ニイタカヤマノボレ一二〇八」太平洋戦争開戦の「密電 」を送電した海軍電波塔のいま
滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【5回】
先の大戦終戦から80年目の節目を迎える2025年現在、東京周辺に残る近代の軍事関係遺産は毎年のように破壊滅却されている。このような「近代軍事関係遺産」について、東京周辺に限定して紹介していきたい。本企画が遺産保存の一助になれば幸いである。今回は、1941年12月「ニイタカヤマノボレ」という秘密電報を送った船橋行田地区にあった海軍電波塔を紹介する。
■千葉県内にあった無線塔
戦前、全国各地に100メートル以上のそそり立つ「無線塔」が建設されていた。これは、現在のように電波環境が良好でない時代に世界各地に無線電信を届けるために必須の施設であった。
千葉県でも、佐倉市志津地区や千葉市検見川地区(旧日本電信電話公社の検見川無線送信所/大正15年建設)、船橋市行田地区に建設され、戦後撤去されるまで地元ではその巨大さ異様さが著しく記憶に残っていた。
これらの無線塔からは、近代史の中で特筆される歴史の1ページを飾る重要な電信が発せられたのである。日米開戦日を伝える暗号電「ニイタカヤマノボレ」、マレー半島上陸を伝える暗号電「ヒノデハヤマガタ」、降伏を意味するポツダム宣言受諾電報などである。

現在の検見川無線送信所。3方向を現場シートで囲われているため南側からのみ見学できる。
■ニイタカヤマノボレ
1941年12月太平洋戦争の劈頭、連合艦隊司令長官山本五十六がハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を急襲して大打撃を与え、日米海軍のバランスを変革させる「バクチ案」を考案した。
この案は、当初から海軍軍令部の猛反対を受けたが山本の必死な要求が通り、実行へとなった経緯も有名である。
実行にあたり、米側の諜報を防ぐため密かに主要空母を千島列島に集結させ、その一方で南シナ海に大輸送船団を運航させた。このため、米側は直前まで日本側の動向を掴むことが出来なかった。
ハワイに向かう空母(赤城、加賀、飛龍、蒼龍、瑞鶴、翔鶴)6隻を基幹とする第1航空艦隊(南雲忠一司令長官)は、11月に千島列島エトロフ島単冠湾に集結、11月26日に同湾を出港し、日米通常航路から大きくはずれた北緯40度ラインを東に向かった。12月2日、前日の御前会議で「対米英蘭との開戦を決定」したことから、攻撃艦隊に開戦日を知らせる暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208ヒトフタマルハチ」が船橋市行田の無線塔から発出された。
ここで使われた「新高山/ニイタカヤマ」とは、当時日本領であった台湾中央に聳える標高3,997mの名峰で、当時は富士山より高い日本最高峰となっていた。

行田公園内にある船橋無線塔記念碑
■船橋無線塔
1915年 船橋海軍無線電信所が行田に開設
1916年 逓信省の船橋無線通信局が併設
ハワイ経由で大正天皇と米ウィルソン大統領との電報交換行う
1923年 関東大震災にあたり救助活動の電信を各地に送る
同年 海軍無線電信船橋送信所も併設
1941年 従来の無線塔に代わり長短波発信が可能な182mの自立塔6基を建設
12月2日「ニイタカヤマノボレ」を送信
1945年 敗戦により米軍に接収される(1966年まで)
1971年 自立塔などが解体され県立行田公園となる(県立都市公園は全県10ケ所)
現在では面積11.9haの県立総合公園となっており、 1周1キロのサイクリングロードやランニングロードとともに園内に「船橋無線塔」説明版とモニュメントが設置されている。
主要参考文献・半藤一利・湯川豊『原爆の落ちた日(決定版)』PHP2015

行田公園にある「船橋無線塔」の説明版