義将・大谷吉継の娘にして“日本一の兵”真田幸村の妻として波乱の人生を歩んだ【竹林院】の生涯とは⁉
歴史を生きた女たちの日本史[第24回]
歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。
信州・真田家は、豊臣秀吉政権の時に真田昌幸(さなだまさゆき)の嫡男・信幸(のぶゆき/後に信之)と2男・幸村(ゆきむら/本名は信繁)がそれぞれ、徳川・豊臣に分裂した、といっても過言ではない。特に昌幸の「徳川家康嫌い」は世に知られており、それを承知で信幸は家康に仕えた。仕えるに当たって、名前を「信之」に変えたほどである。家康の養女という形で、徳川四天王のひとりであった本多忠勝(ほんだただかつ)の娘・小松姫を娶った。

「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれるほどの猛将であった真田幸村の像
このころ、幸村は父・昌幸の命令で上杉景勝(うえすぎかげかつ)の人質であったのに、豊臣秀吉の人質となった。秀吉は幸村に目を掛け、直臣に取り立て録まで与えた。そして、家康が忠勝の娘を養女として幸村の兄・信之に娶らせたことを知った秀吉は「そなたには、儂(わし)が嫁を世話しよう」と言い出して、秀吉自身が最も才能を買っている子飼いの家臣・大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を指名した。この時に吉継は越前・敦賀5万石を与えられていた。秀吉が「吉継には100万の兵を与えて戦さをさせてみたい」と言うほどの知謀に溢れる武将として信頼していた人物である。幸村はその吉継の娘を娶るのに、戸惑いこそあれ、断る理由はなかった。
吉継の娘(名前、生年ともに不詳・後の竹林院)が正室として幸村に嫁いだのは、天正19年(1591)だとされる。その前年に秀吉による小田原攻めによって北条氏が滅び、この年に兄・信之が小松姫を娶っていたから、秀吉は幸村の婚礼を急いだようである。

類稀な才能を発揮し戦場で活躍した義将・大谷吉継(東京都立中央図書館蔵)
婚礼の時に幸村は24歳であった。竹林院の年齢は不詳ながら、7,8歳年少と見る向きもある。従って竹林院は16歳か17歳であったろうか。
実は幸村には3人の側室が記録されている。信州・上田の時代に家臣の娘2人、秀吉に仕えてから1人。この3人は、長女・阿菊、2女・於市、3女・阿梅、5女・なほ、3男・幸信をそれぞれ生んでいる。
関ヶ原合戦で西軍が負けて、西軍に加担した真田昌幸・幸村父子は、信之の決死の嘆願で殺されずに、和歌山の九度山に流された後に、竹林院も同道し、ここで5人の子どもを生んでいる。それが、嫡男・大助、2男・大八、4女・あぐり、6女・阿菖蒲、7女・おかねである。
九度山での生活は厳しく辛いものであった。竹林院は、そうした生活を少しでも良くしようと工夫をした。その1つが「真田紐」の考案である。真田紐は幸村が考案したようにいわれているが、実は竹林院が、信州・上田地域での紬の技術を応用して真田紐と呼ばれる紐を織り、家臣たちに行商させて生計を支えたというのが正解である。
そして、大坂の陣が起きる。慶長19年(1614)、冬の陣には夫・幸村とともに大坂城に入った竹林院は、ここでも「大坂方」として立ち働いた。だが、夏の陣で敗れ、幸村も戦死すると子女を連れて城外に落ち延びたところを紀伊・浅野長晟の手の者に発見され、捕縛された。後に家康によって放免されるが、ここで髪を下ろして「竹林院」と名乗る。長男・大助は秀頼に殉じて死ぬが、後に4女・あぐり姫は蒲生氏郷の重臣・蒲生郷喜に嫁ぎ、6女・阿菖蒲姫は伊達家の家臣・田村(片倉)定広に嫁ぎ、3女・阿梅姫は伊達家の家老・片倉小十郎景綱に嫁いだ。さらに2男・大八は、園小十郎に引き取られ、片倉守信と名乗り、幸村の血筋を残した。
竹林院は江戸時代の慶安2年(1649)に京都で死去している。臨済宗・妙心寺塔頭大珠院の墓所に幸村(信繁)とともに眠る。