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仏教が日本に浸透したきっかけは奈良時代の「国家プロジェクト」だった⁉ 聖武天皇が目指した“鎮護国家”とは

日本の仏教13宗派 基本の『き』#04

 

■仏の力で天然痘や飢饉を防ぎ世の中を安定させようとした

 

聖武天皇像/模本(東京国立博物館蔵・出典:ColBase)

 

 奈良時代(710~794)の仏教の様相は現代とは大いに異なっていた。奈良時代の仏教は、中国や朝鮮半島から輸入された仏教で、鎮護国家の仏教であった。鎮護国家とは、国家に迫り来る災厄を鎮め、国家を護持することを意味するが、そもそも当時の国家とは、国という字が、囗(くにがまえ)で象徴される領域の中心に王がいることを表しているように、天皇を指していた。もっとも、その国家というのは、個人としての天皇を指しているのではなく、いわば大和民族共同体の代表者としての天皇を指していた。それゆえ、当時の僧侶たちは、大和民族共同体の代表者(象徴)としての天皇の鎮護を目指し、読経(経典を読みあげること)するなど祈禱を行っていたのである。 

 

 聖武天皇は、諸国に国分寺・国分尼寺を創設し、その中心として東大寺を位置づけ、そこに盧舎那仏(るしゃなぶつ/奈良の大仏)を造立したことで知られるが、聖武天皇時代の仏教も、奈良時代の他の天皇時代と同じ鎮護国家の仏教であった。しかし、聖武天皇が行った諸事業は、他の天皇に見られない壮大な事業であったことは言うまでも無い。

 

■大仏造立にかける思いは国家財政を傾けるほど

 

 聖武天皇は、天平13年(741)2月14日、国分寺建立の詔(みことのり/命令)を発した。それによれば、諸国に僧寺を作り、金光明四天王護国之寺と名付け、僧20人を住まわせ、七重塔を建て、それに金字で書写された金光明最勝王経を納めさせた。また、諸国に尼寺も造営させ、法華滅罪之寺と名付け、尼10人を住まわせた。それらの諸国国分僧尼寺では、金光明最勝王経、法華経の読誦(どくじゅ)を命じている。

 

 大仏の造立は、天平16年に近江紫香楽宮(滋賀県甲賀市)で着手されたが、その翌年からは還都した奈良平城京の金鍾寺の地で再開された。金鍾寺は東大寺として発展してゆく。天平勝宝4年(752)に大仏・開眼供養会(かいげんくようえ)が行われたが、この大仏を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったとも言われている。

 

 大仏の前に立つと、造立した聖武天皇や光明皇后たちの熱烈な思いに圧倒される。当時の人々は、洪水や日照りなどの災害や、天然痘、赤痢といった疫病がはやるのは、目に見えない悪霊や悪神のせいだとし、仏像を作り、読経によって、それらを打倒することができると信じていた。仏像が大きければ大きいほど、読経する僧侶の数が多ければ多いほど、その力は大きいと考えられていた。

 

 なぜ聖武天皇は、そうした事業を行ったのであろうか。一つには、当時の天然痘の大流行が大きく関わっていた。天平7年夏から冬にかけて多数の死者をだした天然痘は一時終息していたが、同9年春になって再流行した。『続日本紀』天平9年条には、「春、瘡のできる疫病が大流行した。初め九州より伝染し、夏を経て秋までにわたって流行し、公卿以下国民まで相次いで亡くなり、死者数は数えることができない」とある。

 

 全国一律ではないが、地域によっては人口の3割前後が亡くなったようで、政治を領導していた藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ多くの人が亡くなった。当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされる(天人相関説)と見なされることもあって、天然痘の流行等に責任を感じた聖武天皇は仏教への帰依を深めた。

 

 その結果、国分寺などを建立させ、大仏造立を発願したのである。

 

監修・文/松尾剛次

歴史人2025年8月号「日本の仏教13宗派 基本の『き』」より

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