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冬眠を妨げられたヒグマの「逆襲」 幸せな一家の暮らしが奪われた「札幌丘珠事件」とは?

歴史に学ぶ熊害・獣害

 最近、熊による人身被害の報道が相次いでいる。長い歴史のなかで、人類は何度も共存の難しさや熊害の恐ろしさに直面してきた。今回は明治時代に発生した「札幌丘珠事件」を取り上げる。

 

 事件が起きたのは、明治11年(1878)1月11日から18日にかけてのことだった。明治11年といえば、大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」や近衛砲兵大隊が中心になった反乱「竹橋事件」が起きた年だ。長く続いた徳川の世が終わり、日本は文明開化の真っ只中にあった。北海道では、農地の開墾や市街地の整備が進められており、内地から入植した開拓民も多くいた。

 

 第1の事件は、円山山中でとある猟師が冬眠中のヒグマを発見したことから始まる。猟師はヒグマに狙いを定めたが一発で仕留められず、冬眠中のヒグマを叩き起こす形になってしまった。怒ったヒグマに襲われた猟師は絶命した。

 

 眠りを妨げられたヒグマにとっては、飢えが問題になった。食糧を求めて冬の山中から札幌の市街地に下り、駆けていくところを目撃されて、慌てて駆除隊が組織された。駆除隊はヒグマを追いかけるが、ヒグマも逃げ続ける。雪上に残る足跡を頼りに必死にヒグマを追ったものの、結局は猛吹雪のせいで見失ってしまった。

 

 第2の事件が起きたのは、円山から北東に約14km離れた丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)だった。森林の中に、「拝み小屋」と呼ばれる簡素な小屋がいくつか建っている、小さな村だった。

 

 丘珠村に暮らしていた堺倉吉さん(当時44歳)と妻のリツさん(当時36歳)は、箱館戦争の影響もあって内地に帰ることを断念した夫婦だった。2人は寒さ厳しいこの土地で炭焼きをし、慎ましい生活を送っていたという。決して楽な暮らしではないが、長男・留吉さんが誕生したばかりで、一家はようやく穏やかな幸せを手にしようとしていた。

 

 ところが、そんな堺家の小屋に突如例のヒグマが現れたのである。18日未明のことだった。物音に気付いて飛び起きた倉吉さんは、外の様子を窺おうとした際あっという間にヒグマの一撃を受けて倒れた。即死だったという。リツさんは幼い留吉さんを抱きかかえて逃げ出そうとしたが、背後から襲いかかったヒグマの爪が頭部を直撃し、衝撃で留吉さんを取り落としてしまった。幼い留吉さんの小さな体は雪原に投げ出され、間もなくヒグマの牙が突き立てられた。リツさん自身も頭皮が剥がれるほどの重傷を負いながら、必死で雇い人の石澤定吉さんに助けを求めた。

 

 中山茂大『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)では、発見された文書に基づく死者と重傷者の数に関しても言及されている。それによると、死者は倉吉さん、留吉さん、酉蔵さんという名の雇い人1名で、重傷者はリツさんと彼女を救出しようとした石澤定吉さんの2名ということになるそうだ。第1の事件で犠牲になった猟師を加えると、死者4名ということになる。

 

 ヒグマは18日の昼に発見され、駆除隊によって射殺された。オスの成獣で、体長は1.9mに及んだという。その後解剖され、はく製となって博物館に保管されることになった。しかもこれを明治天皇が北海道行幸中に見学したというから驚きである。はく製は現在でも北海道大学植物園に保存されている。

 

 この事件は、冬眠中のヒグマを銃撃し、仕留めきれなかったことに端を発する。そして冬眠中とあって飢えていたヒグマが、幸せだった一家を襲って食い散らかすという惨劇につながった。空腹が人間を襲わざるを得なくしたのである。

 

 近年、本州でも山中だけでなく市街地の付近やキャンプ場などで熊が目撃されるケースが多くなっている。夏本番、レジャーで山を訪れる際には事前に熊の目撃情報などがないかリサーチをし、もし熊が出没する可能性がある場所を登山などで訪れる場合は万全の対策をするよう、心がけていただきたい。もちろん、目撃情報が多い地域にはできるだけ近寄らないということは言うまでもない。

イメージ/イラストAC

<参考>

■中山茂大『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)

■札幌市教育委員会『札幌事件簿』(北海道新聞社)

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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