素戔嗚尊と同一視される「蘇民将来」とは何者か? 日本人の源流に迫る重大ヒントが隠された伝説
日本史あやしい話
蘇民将来といえば、夏越の節句に催される神事「茅の輪くぐり」の由来となった物語の主人公である。遠くからやってきた武塔神(牛頭天王)なる神さまに善行を施したことで、大きな徳を授かったと伝えられる人物だ。素戔嗚尊と同一視されるというのも不思議であるが、その物語が、日本人の源流を探る上で重大なヒントを与えてくれるというから侮れないのだ。いったい、どういうことなのだろうか?
■武塔神と牛頭天王の二つの物語
「祓え給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸(さきわ)へ給へ」
こんな唱え言葉を口にしながら、茅(ち)の輪と呼ばれる藁などで作られた大きな輪をくぐったことがあるだろうか?毎年6月の晦日(30日)の夏越の節句を前にした神社などで、よく見かける光景である。茅の輪をくぐり抜けることで、心身を清めるとともに、災いを避けることができるとの信仰による神事だ。
大抵の場合、左回りからはじめて、次に右回り。最後にもう一度左回りした後、輪をくぐり抜けて拝殿へと向かうというのが習わしであった。その由来がわからずとも、無病息災あるいは家内安全にご利益があると言われれば、多くの方が何のためらいもなく輪をくぐり抜けたに違いない。筆者ももちろん、その一人であった。
しかし、この神事には、実はとある物語が由来となっていたことを頭に入れておいても悪くないだろう。それが、『備後国風土記』(『釈日本記』に引用)に記された蘇民将来にまつわる逸話である。何はともあれ、その概要から見てみることにしよう。
登場するのは、武塔神なる神さまである。この神さま、話が少々ややこしいが、西王母を母とする牛頭天王ばかりか、天照大神の弟・素戔嗚尊とも同一視されることもあるという不思議な経歴の持ち主であった。
簡単に言えば、この御仁が旅先でもてなしを受けた蘇民将来なる人物に恩義を施すというお話である。蓑をまとった貧しい身なりで諸国を巡り歩いていた武塔神が、旅の途中、とある長者に一夜の宿を乞うたところから話が始まる。長者の名は、巨旦将来。裕福であったにもかかわらず、武塔神の申し出を無下に断ったことで、怒りを買ったようだ。ところが、次に巨旦の兄である蘇民に宿を乞うや、こちらは貧しいにもかかわらず、快くもてなしてくれたとか。
ここからが、勧善懲悪物語の本領発揮である。後に再訪した武塔神が、恩義のある蘇民の娘に茅の輪を授けたことで、兄の蘇民一族だけが生き延び、弟の巨旦一族は疫病で死に絶えたと締めくくるのだ。この説話が元となって、全国の国津神を祀る神社などで神事として続けられてきたのが、この茅の輪くぐりだったのである。
一方、前述の牛頭天王の名が登場するもう一つの物語も紹介しておこう。こちらは、かつて祇園社と呼ばれていた八坂神社に伝わる『祇園牛頭天王御縁起』である。それによれば、牛頭天王とは、神とはいえ夜叉さながらの恐ろしい姿だったという。7歳にして身長が7尺5寸(約2m25㎝)もあったというばかりか、3尺(約90㎝)もの牛の頭に3尺(同)の赤い角が生えていたというから恐ろしい。ただし、天王自身は善政を施して多くの国民に親しまれてはいたとか。それでも、恐ろしい姿ゆえに、后を迎えることができなかった。天王が悲嘆に暮れていたそんなある日、南海の果ての龍宮に、后となるべき女性がいると伝える者がいたのである。
早速、南海へと向かったものの、南天竺の夜叉国にたどり着いたところで疲労困憊。その国の王・巨旦大王に一夜の宿を乞うも、激しく罵倒されて追い出されてしまった。仕方なくさらに歩き続けると、今度は蘇民将来という老翁の住む庵に行き着いた。前述の巨旦とはうって変わって、粗末ながらも精一杯の馳走でもてなされたという。さらに舟をも用意してくれたことで、龍宮へ無事到着することができたのである。こうして后を迎え入れた天王は、その後8人もの王子にも恵まれ、幸せな歳月を過ごしたと続けるのだ。それから21年、望郷の念が生じた天王は、八王子を引き連れて北天竺へと戻っていった。その途上、かつて天王を邪険に扱った夜叉国の巨旦大王を攻め滅ぼし、攻め取った領土を蘇民将来に与えるとともに、「二六の秘文」なる秘法を授けて、子孫の守護まで約束したという。
■蘇民将来は蘇からの渡来人、武塔神は北方東夷系?
この二つの物語に共通するのは、蘇民将来なる人物が善行を施したことで、その一族が生き残り(実は生き残ったのは娘だけだったとの説もある)、旅人を邪険に扱った巨旦なる一族が滅ぼされたという点である。ともに、蘇民将来の善行を讃えるかのようなお話であった。
注目すべきは、その名前である。蘇民将来と聞いて、何か気が付かないだろうか?試しに、文字を分解して考えてみよう。これを「蘇」「民」「将来」と書き記せば、お分かりになるのでは?あらためて読み直してみれば、「蘇」の「民」を「将来」したと読めるからである。蘇と言えば、中国の蘇州が思い浮かぶ。そこに住んでいた民を「将来」、つまり連れてきたとみなすことができるのだ。
となれば、ここで一つの説を思い起こしていただきたい。弥生人の南方渡来説を。日本人の源流ともいうべき旧石器人や縄文人が、南方(東南アジアあたりか)を主体(南方人基層説)とするものか、北方(シベリアのバイカル湖あたりか)を主体(北方人基層説)とするものかはいまだ明確ではないものの、稲を携えて渡来してきた弥生人が、長江の中下流出身者である蘇や越の人であったことはほぼ間違いないことだろう。
ここで想像をたくましくすれば、蘇民将来とは、まさに蘇からやってきた弥生人のことで、武塔神(牛頭天王)とは、後に朝鮮半島などからやってきた北方東夷系の人々ことではないか?この後に来た東夷系の人々が、先住していた蘇人のうちの一部を攻め滅ぼし、残った勢力と力を合わせて、新たに国造りを開始したとも考えられるのだ。それは考えようによっては、邪馬台国とヤマト王権の関係性にも通じるものがありそうだから、俄然興味が湧いてくるのだ。
さらに後世になると、武塔神ならぬ牛頭天王は、『記紀』に登場する素戔嗚尊と同一視されるようになる。素戔嗚尊が最初に降臨したのが、新羅の国の「曽尸茂梨(そしもり)」であったというところから、素戔嗚尊が朝鮮半島出身者であることも十分考えられるところである。武塔神と素戔嗚尊が、ともに北方東夷系の人々であったとすれば、彼らが同一視されても不思議ではないのだ。
茅の輪くぐりから、話がとんでもない方向へと広がってしまったが、まんざら突飛拍子もない話ではないだろう。あらためて、日本人の源流、その真の姿を知りたいと願うのである。

諏訪大社で見かけた茅の輪。これを巡れば災いを避けることができるのだとか。
撮影:藤井勝彦