惨劇の地・ラバウルで水木しげるが経験した「戦友の死」 映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』でも描かれた過酷な戦争体験
■ポジティブマインドで南方での軍隊生活を乗り切るが……
昭和17年(1942年)1月、日本軍はオーストラリア領ニューブリテン島・ラバウルを奪取。以降、ラバウルは日本海軍作戦における重要拠点となり、終戦まで軍によって保持されつづけました。
日本軍の敗色が鮮明となっていた昭和18年(1943年)、当地に送られたのが若き日の水木しげる(本名・武良茂、むらしげる)です。まだ21歳だった水木は二等兵として過ごしたラバウルで味わった「天国」と「地獄」の記憶を、様々な作品で描いています。中でも戦後すぐの時期にあたる昭和24年(1949年)から2年をかけ、水木がまとめようとしていたのが手記『ラバウル戦記』でした。
手記は入隊直後を描いたシーンから始まるのですが、いきなり驚かされてしまいます。新米兵の訓練として吹かされるラッパをまったく鳴らせない水木は、人事係の曹長に直談判。「ラッパ吹きを止めさせて」と頼んだところ、「北方がよいか、南方がよいか」と問われ、いきなりの戦地入りが決定してしまったのでした。
水木にいわせれば、当時の日本の「南方戦線」はすでに劣勢つづき。「ニューギニヤをかなりやられ」「ラバウルの近くのブーゲンビル島にも敵が上陸」「十一月には、ラバウルのあるニューブリテン島にも敵が上陸」という末期的状況でした。
しかし水木二等兵は「ほがらかなものだった」。理不尽な理由で、上官から「前の日なぐられても、あくる日は忘れている」水木はポジティブマインドを長い間失いませんでした。
ニューブリテン島に到着した後、20機以上の敵の飛行機から空襲された後でさえ「ノンキな旅行者のような気持とはいかないが、それに近い気持」――「とにかく、毎日面白いのだ」。ラバウルでの従軍を回想した数ある文章の中で「たのしい」などと書いているのは水木だけのようです。
水木の目に飛び込んできていたのは「いきいき」した、色とりどりのジャングルの「木の葉」「鳥や虫」などなど。しかし、天国を思わせる極彩色の南方の風景や生物に意識をフォーカスし、それが悲惨な現実からの逃避になっていた気もします。
ニューイングランド島では比較的早期に田畑を開墾できた分、餓死者は比較的他の戦場より少なかったかもしれません。しかしそれでも食糧難はちゃんとあって、死なない程度には食べられたというだけ……というのが客観的な評価でしょうか。
しかし水木二等兵は巨大カタツムリなど怪しげなものをあれこれと(好奇心もあって)食べ、持ち前のポジティブマインドを発動。たくましく生き抜いた様子です。作中で「土人」と表現される現地の人々との交流も、なぜか水木だけは上手で、タバコ1本と美味しいパパイア1つを交換してもらったりしていますね。
しかし、さすがの水木も次第に元気を失っていきました。わずか10数名の分遣隊に選ばれ、それまで駐屯していたズンゲンから、100キロほど離れた「陸の孤島」バイエンまで移動後、当地で彼が感じてしまった違和感は強烈でした。
昭和19年(1944年)5月下旬のバイエンはあまりに「静か」だったのです。河と山に囲まれた土地ということもあったでしょうが、当地の海軍兵にいわせると「海軍で使っていたソルジャー・ボーイ(現地人を徴用した兵士団)」がなぜか「全員消えた」。彼らの兵舎ももぬけの殻になっていたとのこと。確実に死亡フラグが立っていました。
水木の戦友は、もともと立教大学でラグビー部に所属していたという山本という男で、彼より少し前に入隊していた山本は一等兵――つまり二等兵の水木よりも格上だったのですが、年齢が近く、何かと気があう二人でした。よくつるんでいたようです。
そしてある晩、悲劇は起きました。現地人を徴用した敵軍「ソルジャー・ボーイ」による深夜の奇襲で、水木が所属していた第四分隊は壊滅。奇跡的に生き残ったのは、水木しげるただ一人だったのです。
「人間は危い時に“予知”をする能力があるのだろう。今までに経験したことのない“不気味さ”に兵隊は誰も話をしないし、なぜか話をしてもヒソヒソ声になるのだった」と水木は書いています。水木たちの予感は最悪の形で的中してしまったのでした(以上、引用は水木しげる『ラバウル戦記』から)。

ラバウルの日本兵たち/『大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録 1』より
国立国会図書館蔵