禁断の「人肉食」で戦場での倫理を問う 太平洋戦争末期のフィリピン戦線を描いた『野火』【昭和の映画史】
■飢餓に苦しめられ、人間としての一線を超えてしまう日本兵たちの姿を描く
『野火』は、太平洋戦争末期のフィリピン戦線を描いた、戦争文学の名作である。原作はフランス文学の研究者にして作家の大岡昇平だ。大岡は昭和4年(1929年)に京都帝国大学に入学。評論家の小林秀雄からフランス語を学び、小林の紹介でのちに夭折する中原中也とも知り合った。
近代日本の知識人には英語以外の、フランス語やドイツ語を学ぶ人間が多くいた。欧州が先進国だったこともあるだろう。第二次大戦後、アメリカが日本を占領して世界の覇権を握った上、90年代以降のグローバル化で外国語はほぼ英語一色になった。その結果、言論人の発想から多様性が失われたような気がする。
大岡は大学で同人誌を出すなど文筆に励んだ。卒業後は國民新聞社に入るが退社し、帝国酸素の翻訳係に転じた。さらに長男が生まれた頃、川崎重工業に転職している。
そんな大岡に、太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)3月、教育招集がかかった。7月にマニラに向かい、最終的にはサンホセでマラリアにかかって動けなくなり、翌年1月に上陸してきたアメリカ軍の捕虜となる。この体験から生まれたのが『俘虜記』(昭和23年/1948年)で、これで小説家としての地位を確立した。
それにしても、35歳のサラリーマンまで召集するのでは、もはや末期だ。昭和57年(1982年)の出版だから40年以上前の本だが、『ビルマ敗戦行記』という体験記がある。筆者は当時、日立に勤めていた30代後半のサラリーマンだった。
インパール作戦後の戦争末期に、著者に3度目の召集令状が届く。無事ビルマに到着できたのは3隻のうち1隻だけで、筆者はすぐ士官たちに呼ばれた。何事かと思っていると「本当のところ、戦況はどうなっているのか。お前は日立にいるからわかるだろう」と聞かれたのである。
極秘だった戦艦武蔵の沈没も知っていた筆者は、思い切って「日本の敗戦は間近です」と伝えた。士官たちは沈黙し、誰も言葉を発しなかったという。すでに、43歳の東京帝国大学教授にも召集令状が届くようになっていた。
大岡の著作で最も評価されているのは、『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』だろう。フランス文学の素養に育まれた知性が、戦争を体験して生み出した作品群である。前回取り上げた日中戦争が生んだ国民的作家・火野葦平が、任侠の血筋で体感的な文体であったことと比較すると、その違いが鮮明になる。
『野火』は、悲惨な南方線末期を体験した大岡が、証言も踏まえて象徴化したフィクションである。飢餓に苦しめられ、人間としての一線を超えてしまう日本兵たちの姿を描いて、社会に衝撃を与えた。住民たちがアメリカ軍に内通する様子から、大東亜共栄圏の実態も浮き彫りにした。
この衝撃作を市川崑が映画化したのである。市川は珍しい経歴の持ち主で、アニメーターとして出発したのちに、実写映画の助監督となった。幅広く様々な作品を手がけ、凝り性で映像技術にも工夫を凝らして多くのファンを獲得した。
市川はすでに3年前、『ビルマの竪琴』でベネチア映画祭サンジョルジョ賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞の候補にもなっていた。国際的評価を得た市川が、次に選んだのが『野火』である。レイテ島を舞台に、肺を病んだ田村一等兵が地獄を見る物語だ。
映画は、主人公の田村が上官から怒鳴られる場面から始まる。田村が肺を病んだため、上官は「戦力にならない兵隊を養うことはできない」と野戦病院に送り出す。だが田村は、入れてもらえずに戻ってきたのである。
「のこのこ戻ってくる奴があるか!」と上官は怒り心頭だ。いつ敵が襲ってくるかわからない中、部隊は毎日、食糧の調達のみに追われているのである。上官は「また野戦病院へ行け。入れてもらえなかったら自決せよ」と命令する。
野戦病院と言っても壊れかけたバラック小屋だ。入り口には田村と同様に中に入れてもらえず、見捨てられて弱った兵士たちが倒れ込んでいた。その中に若い兵士永松と、足を負傷して動けなくなった年長の兵士安田がいた。
野戦病院にも入れず、追い出された原隊にも戻れない田村は、行くあてもなくさまようしかない。通りかかった村では日本兵の遺体が山積みになっており、住民に出くわした田村は動転して撃ってしまう。
やがて田村は、出会った兵隊からパロンポンへの撤退命令が出たことを知り、同行する。日本兵は幽鬼のような姿でぞろぞろと歩いていく。まともな服装をしている者は誰もいない。飢餓と病気、そして爆撃で日本兵は次々に死んでいく。再び出会った永松と安田は、干した謎の肉を食べていた。
映画は最後、1945年2月という文字が現れて終わる。死者の6割以上が餓死あるいは戦病死だった太平洋戦争の実情、そして南方線末期の悲惨な様子を『野火』は可視化した。永松と安田は生き延びるために、人間としての一線を超えていたのである。
二枚目スターの船越英二は、この田村役で評価を上げ性格俳優に転じた。永松役のミッキー・カーチス、安田役の滝沢修も絶妙な配役である。悲惨な内容なのに白黒の映像は美しく、度々上る野火が不気味な緊張感を醸し出す。
あれは住民がとうもろこしの殻を焼く火なのか、それともゲリラが日本兵の居場所を教えているのか。全編に漂う緊張感は、現地の住民をゲリラではないかと絶えず疑わなければならない環境と、仲間さえいつ敵になるかわからないという極限状況から来るものである。
日本は遠い。パロンポンすら遠くてたどり着けない。西洋文明と東洋文明の融合、大東亜共栄圏という壮大な理想を掲げた皇軍の最後は、あまりにも悲惨なものだった。
この名作を2015年に、個性的な作風で知られる塚本晋也がリメークしたのである。構想20年、戦後70年の節目に父親の遺産を全て投じて制作した。自ら田村を演じるなど多大な情熱を注ぎ込んだ。
塚本が『野火』のリメークに踏み切ったのは、この作品に色をつけたかったこと、市川版ではできなかった海外ロケを行いたかったこと、そして市川版が避けた人肉食を描きたかったからだという。
市川版と比べるのは酷というものだが、リメークした意義は充分にあり、ベネチア国際映画祭でも上映された。塚本作品らしくホラー調に仕上がっていて、これはこれで面白い。

レイテ島に上陸する日本軍/『写真週報』(348号/昭和19年11月22日号)/国立公文書館蔵