植民地から目指した「夏の甲子園」外地と呼ばれた台湾・朝鮮・満洲から出場を夢見た球児たち
戦火と野球
■戦時下の「夏の甲子園」を紐解く
まもなく全国高等学校野球選手権大会、いわゆる「夏の甲子園」が始まる。毎夏、炎天下で高校生球児が繰り広げる汗と涙の青春ドラマという部分もあり大衆に感動を与える部分もあるが、他方で、出場チームの選び方(地域格)、酷暑でのプレー、投手の球数など問題も色々抱えているのも事実だ。
振り返れば昔は、今日のように各都道府県で代表を選出するというものではなく、地域で優勝決定戦(例えば1948年から1974年まで岐阜県代表と三重県代表の対戦は三岐大会と呼ばれた)を行って甲子園に出場する方式が近年まで取られていた。また2025年には、最激戦地区は愛知県の173チーム、また神奈川が172、兵庫、大阪、千葉と続く。また最少は鳥取と高知は23というようにその格差は尋常とは言えない。郷土の代表といった志向が格差を維持するままになっている。
一方で、戦前日本が海外に植民地を領有していた時、その地域から夏の大会に出場していたことを知っている人はどれほどいるだろうか。今回は、そのような過去についてふれてみたい。
「夏の甲子園」は1915(大正4)年夏、大阪朝日新聞(以下、大朝とする)の主催で第1回全国中等学校優勝野球大会(1941年中止、1947年に再開)がとして始まった。国際情勢を見ると第1次世界大戦がエスカレートしており、世界が非常時の時、日本では中等学生野球が始まったことになる。
同大会は、第1回と第2回が豊中グランドで開催、第3回は鳴尾球場となったが狭い球場であり大朝の要請を受けて阪神電鉄が半年の突貫工事で甲子園球場を建設した。そして1924年から甲子園で「夏の甲子園」は始まった。最初の優勝チームは京都二中(現在の鳥羽高校)、準優勝は秋田中学(現在の秋田高校)だ。因みに長い歴史で第100回大会の2018年の金足農業が秋田中学以来の決勝進出であり同県にはまだ深紅の優勝旗はもたらされていない。
一方、台湾と朝鮮は戦前には日本の領土に含まれ「外地」と呼ばれ、満州は「満州国」という独立国家で高校野球の選手権では「満州国」も加えた全国予選が始まった。といってもこれらの地域には日本人移住者が多く、野球熱も高く日本人と現地の住民との混成チームが結成されていた。「外地」のチームは1921年には初めて「夏の甲子園」に参加、釜山商業はベスト8、大連商業はベスト4まで進むという実力ぶりだった。
そのなかで、特筆したいケース試合が、1931年(第17回大会)の決勝、中京商業対台湾の嘉義農林(かぎのうりん/現在の嘉義国立大学)という組み合わせだ。「外地」チームの決勝進出で台湾の球児は沸き立ったが、同チームが、日本人、台湾人、高砂族の選手という異色のチーム構成で大きな話題になった。
同校を率いた近藤兵太郎監督は、名門松山商業の野球部監督を経て、1925年に台湾の嘉義商工学校に赴任、さらに1928年に嘉義農林の指導を始め、1931年に監督になった。まさにその年、甲子園の初出場した同校は、神奈川商工、札幌商、準決勝で小倉工業と次々に強豪を破り、決勝進出、最後は中京商業(中京大中京)の吉田正男投手に5安打完封で準優勝となった。同年秋には、満州事変が勃発、非常時の中「夏の甲子園」は続いていた。
ところで「夏の甲子園」の勝利投手、吉田投手は今や伝説の選手になっている。彼はなんと「夏の甲子園」3連覇を成し遂げた唯一の投手なのだ。今にいたっても3連覇を成し遂げた高校はない。甲子園では通算23勝(3敗)をあげている中京商業黄金時代のまさにレジェンドだ。この時中京商業は春夏連続6回出場、吉田もまた6回出場、卒業後は明大野球部に入り、1935年の春のリーグ戦では7勝1敗で優勝に貢献、最終学年では主将を務めているが中途肩を壊して外野手に転向した。さらに藤倉電線(後のフジクラ)に入社、都市対抗では再び投手に復帰、都市対抗野球では2連覇、橋戸賞を授与され、プロ入りもせず生涯アマチュア野球に尽力した。
一方、近藤監督は2024年に台湾棒球名人堂(日本版の野球殿堂)入りしている。野球を通じて日台友好の証にもなっている。また2014年同校の甲子園での活躍の実話をもとに映画『KANO1931 海の向こうの甲子園』が台湾で大ヒット、甲子園歴史館には展示やイベントもあり、同館には台湾から来場者が増えている。
この当時、「外地」からは釜山商、大連商、京城中、平壌中、青島中、台北一中、台北商など多くの「外地」からの参加があったことは日本人の野球熱を物語ることになる。
1941年、大戦の影響で全国規模の大会は中止になり、第27回大会も中止になった。

甲子園球場の歴史を集めた甲子園歴史館