朝ドラ『あんぱん』史実では高知で3年間の療養生活 若松次郎のモデルとなった男性との死別
朝ドラ『あんぱん』外伝no.45
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、第13週「サラバ 涙」が放送中。信じていた正義が間違っていたことに打ちのめされ、それを子供たちに教えてきたことを後悔するのぶ(演:今田美桜)は、教師を辞める。夫・次郎(演:中島 歩)は海軍病院での入院生活を続けているが、病状は思わしくない。そして、ついに病院から次郎が危篤であるという電報が届いてしまう……。史実でも、次郎のモデルとなった男性は病気によって下船し、療養生活を送っていた。その生涯を振り返る。
■終戦後、7年の結婚生活に終わりが……
若松次郎のモデルとなった小松総一郎さんは高知県高知市生まれ。後にやなせたかし氏の妻となる暢さんの6歳年上だった。
昭和5年(1930)11月22日の官報に、小松総一郎さんの名前がある。掲載されたのは神戸高等商船学校入学試験に合格した生徒の一覧だった。神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)は、当時日本に2校しかなかった高等商船学校のひとつである。学費が免除されるのはもちろん、生活費まで支給されるとあって志望者も多く、難関校でもあった。総一郎さんが非常に優秀だったことがわかる。
昭和11年(1936)、総一郎さんは同校の機関科を卒業。『神戸高等商船学校一覧』には、同年の卒業生一覧のなかに「小松総一郎 高知」という名前と本籍の記載がある。卒業後は、日本郵船株式会社に就職した。
「海技免状原簿登録」によると、総一郎さんは昭和16年(1941)に二等機関士から一等機関士に昇格している。これが記載された官報は、太平洋戦争開戦が間近に迫る同年9月2日付のものだ。そして、太平洋戦争が開戦すると、総一郎さんも戦争に巻き込まれていく。
高知新聞の取材で、その後総一郎さんが徴用された貨物船での輸送任務に就いていたことがわかった。日本郵船が所有していた大型貨物船「松本丸」で原油輸送任務についていたらしい。
「松本丸」は、大正10年(1921)に竣工。太平洋戦争開戦時点ですでに20年が経っている旧型となっていた。松本丸は呉で応急タンカーに改装され、昭和18年(1943)からは船舶運営会の使用船となる。船舶運営会とは、昭和17年(1942)に設立された海運統制組織である。
太平洋戦争においては、徴用された数多くの民間船舶が失われている、松本丸は昭和19年(1944)10月に、アメリカの潜水艦「タング」の雷撃によって座礁、やがて沈没した。しかし、この時既に総一郎さんは船にはいなかった。その前年に結核を患ったためである。時期としては、前述の改装のために呉に入ったタイミングで下りたものと考えられる。
故郷の高知市に戻った総一郎さんは、そこで療養の日々をおくった。過酷な戦場での輸送任務から生還し、生きて終戦を迎えたものの、病状は悪化する。そして、終戦から5ヶ月後の昭和21年(1946)1月19日、33歳という若さで亡くなった。妻である暢さんの手元には、生前に贈られたライカのカメラが2人の思い出として残ったという。

イメージ/イラストAC
<参考>
■高知新聞社編『やなせたかし はじまりの物語: 最愛の妻 暢さんとの歩み』
■『神戸高等商船学校一覧 昭和11年・12年』