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虎将と恐れられた“最上義光”の妹にして独眼竜“伊達政宗”の母として群雄が割拠する戦国でお家を守ろうとした【義姫】とは?

歴史を生きた女たちの日本史[第15回]


歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。


 

伊達政宗像

 

 伊達政宗は米沢城(山形県米沢市)で生まれ、黒川城(福島県会津若松市)、岩出山城(宮城県大崎市)と、居城を移した後に仙台城(仙台市)を築いて、ここに移った。以後、伊達62万石の城下町として発展した。

 

 政宗の母・義姫は、出羽山形城主・最上義守の娘として生まれた。兄は周囲から驍将と怖れられた最上義光である。義光は、弟・義時を殺害してクーデターの禍根を断ち、家督を相続した後は政略結婚と武力との両面作戦で徐々に領土を拡大し、戦国大名にのし上がった武将である。その政略結婚の道具に使ったのが、実妹の義姫(よしひめ)であった。

 

 義姫は、永禄8年(1565)ごろに伊達家16代・輝宗(てるむね)に嫁いだ。もちろん、伊達家も政略結婚には重きを置いてきた。14代・稙宗(たねむね)は2男6女を周辺の豪族に養子として入れ、15代晴宗も同様に4男3女を諸豪族に入れている。近隣諸国との姻戚関係を深めて家の威勢を保とうとしてきたのである。

 

 義姫は永禄10年8月3日、米沢城で待望の嫡男を生んだ。義姫は20歳であった。政宗生誕にまつわる伝説がある。義姫の夢に白髪の老僧が立ち、義姫の胎内に宿を借りたいと要請した。夫の輝宗は、これを瑞夢(ずいむ/縁起のよい夢)として喜び、老僧が与えた幣束(梵天)を意識した。生まれた男児を「梵天丸」と名付けたのは、このためであり、梵天丸はのちの政宗である。

 

 戦国時代は、織田信長が台頭して新しい時代に入っていた。さらに本能寺の変の後、羽柴秀吉が信長の跡を継ぐようにして、近畿地方から四国、中国、九州までを席巻し、その食指は関東から奥羽・東北までに延びようとしていた。特に奥羽では、この時点でも群雄が割拠して戦乱が続いている。

 

 天正12年(1584)、輝宗は18歳の政宗に家督を譲って隠居した。しかし、この時期になると義姫は政宗とは、反りが合わなくなってきていた。そのうえに天下を目指す秀吉が「奥羽での私戦を禁じた」以降も、政宗は領土拡大を目指し、義姫の実家・最上家を無視し、会津の名門であった蘆名氏を滅亡させた。それが秀吉の命令に反することを十分承知しながらの政宗であった。

 

最上義光像

 

 これに危惧を抱いた義姫は「このままでは伊達家は危ないぞ」という兄・義光のアドバイスもあって、政宗排除に動く。同じく危惧を抱いた家臣にも図って政宗の弟・小次郎(13歳)を当主に付けようと画策した。

 

 豊臣秀吉の小田原征伐に参戦する直前の政宗を義姫は自分の住む館に招いて祝宴を開く。ここで政宗は毒入りの食事によって腹痛を感じた。義姫の策謀を知った政宗は城に逃げ帰って無事であった。小次郎がいるからだ、とばかり政宗は罪のない弟を斬り殺して出陣した。義姫は追放と同様の形にされ、実家に戻されたという。

 

 しかしその後、文禄・慶長の役に出陣する政宗に餞別や書状を送るなど義姫は、母親としての愛情に目覚め、政宗もそんな母に朝鮮での土産を求めるなどしている。母子の確執は終わったのである。元和8年(1622)、義姫の実家・最上家が改易になると政宗は、母親・義姫を仙台に引き取り、城の西南4㌔ほどの場所に住まわせた。義姫75歳、政宗55歳である。そして翌年の7月16日、義姫(保春院)は病死した。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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