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暗殺疑惑が絶えなかった次期将軍・家基の死 その後「幻の御台所」種姫はどうなった?


大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」第15回「死を呼ぶ手袋」では、蔦重(演:横浜流星)が独立して自分の店『耕書堂』を構えた一方、市中で様子のおかしい平賀源内(演:安田顕)に出会い、不安にかられる。さらに江戸城内では、次期将軍の家基(演:奥智哉)が鷹狩りの最中に突然倒れ、急逝するという悲劇が。田沼意次(演:渡辺謙)らをはじめ揺れに揺れる江戸城。今回はその江戸城にいたはずの種姫について取り上げる。


 

■家基の死によって大きく運命が変わった種姫

 

 種姫は明和2年(1765)に江戸の田安屋敷で田安宗武の七女として誕生した。生母は定信と同じ香詮院である。種姫もまた、8代将軍・吉宗の孫にあたる。

 

 安永4年(1775)、11歳の時に、10代将軍・家治の養女として、江戸城の大奥に迎えられることになった。しかしこの養子入りには謎が多い。将軍家の養女になったにも関わらず他家と縁組の話が進んでいたという形跡がなかったのだ。他家に嫁がせるための“泊付け”として将軍養女になったわけではないとすると、種姫を将軍継嗣である家基の正室にしようと考えていたのでは? という説もある。2人は3歳違いで年齢の釣り合いもとれていた。

 

 一方で、3代将軍・家光以降は五摂家か宮家の姫が将軍の正室になるのが慣例だった。11代将軍・家斉の正室は薩摩藩の姫だが、このケースは家斉が次期将軍と定められる前に婚約がなされていたからという特例だ。よって、御三卿・田安家の種姫を御台所にする予定があったかどうかは微妙なところである。

 

 しかし、種姫が家基の御台所になることはなかった。種姫が大奥に入った4年後の安永8年(1779)、家基が鷹狩りの帰路に立ち寄った品川・東海寺で体調不良を訴え、江戸城に戻った後わずか3日で急逝したからである。この時家基は18歳、種姫は15歳だった。

 

 健康そのものだった家基が突然の死を迎えたことで、毒殺説も囁かれた。犯人候補として名前が挙がったのは、家基との関係が決して良くはなかった田沼意次だ。しかも、家基は東海寺で意次が懇意にしている奥医師が出した薬湯を口にしていたという。また、大奥を中心に「自分の息子を次期将軍にしたい一橋治済が謀ったのでは」という噂もまことしやかに囁かれた。

 

 ここで気になるのが、家治の元に残された種姫だ。仮に種姫が御台所候補だったとするのなら、彼女の運命は家基の死によって大きく変貌したことになる。家基が“幻の将軍”と言われるのと同様に、“幻の御台所”となったのだ。そんな種姫は、謎だらけの家基の死から3年後の天明2年(1782)、18歳の時に紀州藩主の嫡男・岩千代(後の治宝)との縁組がまとまった。岩千代は12歳で、種姫より6歳年少だった。

 

 その後、家治が亡くなって11代将軍・家斉の世になり、さらには実兄・松平定信が老中になった。そんな時代の変革期を経て、縁談がまとまってから5年が経った天明7年(1787)にようやく紀州藩の赤坂上屋敷の御守殿に入り、正式に婚姻と相成ったのである。種姫は23歳、治宝は17歳になっていた。武家の姫としては遅い初婚で、これも「種姫は家基の正室候補だった」とされる理由の一つである。

 

 その後の結婚生活は、種姫にとって悩みの多いものになった。治宝と側室の間には子が生まれたにも関わらず、種姫は懐妊することはなかった。また、大奥から付き従ってきた女中たちは紀州藩邸での地味な暮らしに不満をもらし、家中で反感をかっていたともいう。そして、兄である定信が失脚して老中を解任された翌年の寛政6年(1794)、種姫は30歳という若さでこの世を去った。

イメージ/イラストAC

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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