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光源氏のモデルを探して、京都から大阪へ。山上から街を見下ろす陵墓、都心の古社寺の静謐は何を語る?

インバウンドから逃れたい! 「歴史&絶景」1日で巡れる関西の穴場【第3回】

 


光源氏のモデル有力候補とされる源融は嵯峨天皇の子。皇子でありながら臣籍に降下して源氏姓を名乗り、のちに左大臣に昇った。今回は源融とその父・嵯峨天皇の足跡をめぐり、『源氏物語』に描かれた栄華と数奇なうつろいに思いを馳せる。ランチは京都駅周辺または大阪梅田で。繁華街への寄り道もありの1日コース。


 

■光源氏のモデルを探して

嵯峨山上陵到着間近。振り返ると、眼下に広がる京都の街が山上陵の庭のようだ。撮影:本渡 章

 『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルといわれる源融(みなもとのとおる)が気になっていた。皇子でありながら臣籍に降下し、源氏を名乗って左大臣に昇ったものの藤原氏との因縁から一時政務を退いた。復帰して後は栄華を謳われ、曲折のある生い立ちが物語の光源氏と似る。父の嵯峨天皇にも謎がある。平城上皇との対立を武力で制して政権安定と王朝文化隆盛を果たし、誕生間もない平安京に春をもたらした天皇は死後の祭祀を拒み、薄葬を望んだ。意志にそむけば怨霊となって恨むとの遺言まで残したのは、なぜなのか。

 

 死後、嵯峨天皇は遺言どおりに墓が建てられず、源融は都を離れた浪華の地に父を祀る神社を創建した。浪華には空海が嵯峨天皇の念持仏(ねんじぶつ)を本尊にひらいた寺もあり、源融は七堂伽藍を建てた。それぞれ今は綱敷天神(つなしきてんじん)、太融寺(たいゆうじ)と呼ばれる社寺となり、梅田の繁華街の一角で健在だ。かつて嵯峨天皇が行幸した浪華の地で父を悼んだ源融は、都での日々に何を思っただろう。

 

 時代が下り、幕末から明治の時代の変わり目に、ようやく京都に嵯峨天皇の墓となる嵯峨山上陵が造立された。嵯峨天皇と源融、王朝の栄華を生きた父子の胸の奥底に何があったのかはわからない。しかし、京の都と浪華の地に残る陵墓と寺社は今もなお『源氏物語』に通じる王朝絵巻の光と影を映し、屈折のある父子の生涯は光源氏のモデルを源融とする説を思い起こさせる。

 

 嵯峨山上陵とその周辺、源融ゆかりの河原院跡は、混雑があたり前の京都で、ゆったり歩ける穴場だ。大阪の綱敷天神、太融寺は繁華街に接しながら、エアポケットのような静けさが漂う。嵯峨天皇、源融の父子の足跡は何を語るのか。京都~大阪間をかつての京街道と並行して走る京阪電車からの車窓風景とともに1日たっぷり楽しみたい。

 

■京都を見下ろす嵯峨山上陵

 

嵯峨山上陵へのつづら折りの石段は往復千段余。登って降りる間にすれちがった参拝者は一人だけ。嵯峨山上陵はその名のとおり山の上にある。没後千年以上を経てできた墓で、薄葬を遺言した天皇は何を思う? 撮影:本渡 章

 嵯峨天皇の墓となった嵯峨山上陵は、JR嵯峨野嵐山駅の北にある。観光客のほとんどは南の嵐山に繰り出すので、山上陵の麓まで一人、広々とした道をのびのび歩いた。

 

 途中にある大覚寺は前身が嵯峨天皇の離宮で、後に後宇多法皇の御所となった。そこから後宇多法皇の血統が大覚寺統と呼ばれ、後に後深草天皇の持明院統と対立して南北朝分裂の時代が始まる。大覚寺でもうひとつ有名なのは日本最古の庭池、大沢の池の畔の名古曽の滝跡だ。石碑が建ち、滝にちなむ「百人一首」の歌「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(藤原公任)を記した案内板がある。滝は涸れたが、その名は今なお滔々と人の心に流れ、この耳にも聞こえると詠んだ歌だが、この地が嵯峨天皇の離宮跡であるのを忘れないとの源融の心とつい重ねてしまう。

滝は涸れたが、その名は今もなお滔々と人の心に流れ、この耳にも聞こえてくるよ……有名な名古曽の滝跡に現在は小さな滝(写真の奥)あり。撮影:本渡 章

 嵯峨天皇の没後、遺骨は人知れず山中に埋められ、遺言により樹木も植えず、草木が生えるままとし、祭祀もせずとした。その場所は大覚寺の裏山のどこかという以外は不明。現在の陵墓は幕末から明治にかけての王政復古で、天皇陵の見直しが行われたのにともない、大覚寺から北西の山上に造立されたと聞く。その嵯峨山上陵へは山麓から切れ目なく続く500段余の石段を登って、ようやく到着。海抜190メートルの高みから京都の街を見下ろす。源融はこの山を登っただろうか。祭祀を禁じられ、遠く浪花の地でならできることがあると気づくまで、どんな思いをめぐらせたのか。

 

 山を下り、嵯峨野嵐山駅からJRで京都駅まで行く。そこから歩く。都に残した源融の足跡を訪ねた。五条大橋の近くに河原の左大臣の呼び名のもとになった源融の大邸宅、河原院(かわらのいん)があった。今は跡地の一角に石碑だけが建っていた。河原院旧蹟との伝承をもつ渉成園にも立ち寄った。現在、その伝承は学問的に否定されているが、庭園の池には源融の供養塔とされてきた九重の石塔が残され、水面に影を映していた。

 

■融の名から太融寺、神野の諡(おくりな)から神野太神宮 

 

 源融の足跡を追って大阪へ。河原院跡からほど近い京阪清水五条駅から京橋駅でJR環状線に乗り換えて大阪駅着。駅前から東へ約600メートル、梅田の繁華街を抜けていくと太融寺だ。嵯峨天皇の念持仏を本尊として寺を創建したのは空海で、後に七堂伽藍を立てたのが源融だ。源融は亡き父、嵯峨天皇ゆかりの寺を大寺にし、名を太融寺として自らの名の1字を寺名に残した。さらに、その寺の鎮守の神社を新たに建立して父を神として祀り、神野太神宮と名づけた。神野は嵯峨天皇の諡(おくりな)である。弔いを尽くし、父子の一体感はここに極まる。

 

綱敷天神社の所在地の町名は神山町。もとの社名は神野太神宮で神野は祭神である嵯峨天皇の諡(おくりな)。撮影:本渡 章

 神野太神宮の現在の呼び名は綱敷天神。太融寺から北へ。再び繁華街をくぐり抜けたところにある。嵯峨天皇は弘仁13年(822)の浪華行幸の折り、当地で一宿し頓宮を構えた。後に大宰府に向かう菅原道真がここで咲き誇る紅梅に目をとめ、花見のひとときで心を慰めたことから、後には菅原道真を合わせ祀り、綱敷天神と呼ばれるに至る。神社名は変わったが、嵯峨天皇が祭神であるのは今も変わらない。太融寺と綱敷天神は約200mの至近距離にあり、ともに繁華街の賑わいのかたわらで、王朝絵巻を生きた父子の物語を密かに継いできた。嵯峨天皇がこの地を訪れてからすでに1400年余が経つ。

 

 

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過去記事

本渡 章ほんど あきら

1952年生まれ。作家・古地図コレクター。1996年、第3回パスカル短篇文学新人賞優秀賞受賞。著書に『図典「摂津名所図会」を読む』『図典「大和名所図会を読む』『古地図が語る大災害』『カラー版・大阪古地図むかし案内』『京都名所むかし案内』(以上、創元社)、『鳥観図!』『大阪古地図パラダイス』『古地図で歩く大阪ザ・ベスト10』(以上、140B)など。他に編著『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)、共著『飛翔への夢』(集英社)など。

 

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