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満州でユダヤ人難民を救った日本陸軍のエリート軍人【樋口季一郎】は何をしたのか⁉─太平洋の戦火で命を救った日本人たち─

東京大空襲と本土防空戦の真実#03

 

樋口の遺光を現在に伝える北海道石狩市「樋口季一郎記念館」

 

■満州に取り残されたユダヤ人たちを救った日本人

 

 6千人のユダヤ難民を救った杉原千畝が話題になった後に、「もう1人の杉原」と呼ばれるようになった人物が、旧日本陸軍の軍人・樋口季一郎(ひぐちきいちろう)であった。季一郎は「杉原ビザ」に先立つこと2年前の昭和13年(1938)3月、ナチスの迫害から満洲国に逃れた2万人(異説あり)ものユダヤ人を「私の一存で救う」として、ハルビンで受け入れて脱出ルートを開いた稀有な日本軍人である。さらに季一郎の功績がある。終戦末期から終戦後に及んだソ連との北海道を守る戦いで、ソ連軍を退けた英雄でもあった。もう1つ、季一郎はアリューシャン列島にあるアッツ島の守備軍玉砕(全滅)時の司令官でもあった。

 

 樋口季一郎は、明治21年(1888)8月20日、淡路島の南端にある小さな漁村・阿万村(現兵庫県南あわじ市)で生まれた。本名を奥濱(おくはま)季一郎という。後に父方の叔父に当たる樋口勇次の養子となって樋口姓を名乗る。地元の尋常小学校から三原尋常高等小学校に進み、陸軍士官生を目指して大阪陸軍地方幼年学校、さらに中央幼年学校(後の士官学校予科)へと進んだ。同期生に、後に満洲国建設などで知られることになる石原莞爾(いしはらかんじ)がいて、友情を育んでいく。

 

 陸軍士官学校では、ドイツ語・フランス語・中国語・ロシア語・英語などを学んだ。明治42年、22歳で士官学校を卒業した季一郎は、陸軍大学校に入るなど着々とエリート軍人の道を歩んだ。そして、ウラジオストク特務機関、ハバロフスク特務機関・機関長などを経て大正14年(1925)、ポーランド駐在武官としてワルシャワに赴任した。昭和12年、大佐から少将に昇進した季一郎は、関東軍司令部付のハルビン特務機関長に就任した。これが後の「オトポール事件」に繋がっていく。

 

■助けたユダヤ人たちに戦後助けられる

 

 その「事件」とは、季一郎が赴任した翌年、昭和13年3月8日、満洲国西部にある満洲里駅の対岸に位置するソ連領・オトポール駅に多くのユダヤ難民が姿を現したという報告から始まった。50歳を迎えた年齢の季一郎は、その難民たちがドイツを脱出してきたユダヤ人であることを知った。この2年前にドイツと日本は日独防共協定を結ぶ同盟国並の関係になっていた。1度はユダヤ人たちをシベリア開発の担い手として迎え入れたソ連は、この開発がユダヤ人には困難であることが分かると、手の平返しをした。ユダヤ人たちはまた異国の地を彷徨うことになった。

 

 シベリア鉄道ザバイカル線のソ連内の終着駅がオトポールであり、列車は次のマンチュリー駅まで乗り入れていた。だが、満洲国外交部(日本側)が「ビザなしユダヤ人」の入国を拒んだため、難民たちはオトポールで立ち往生したのだった。ユダヤ人の目的は、満洲国を通って上海に抜け、そこからアメリカ、オーストラリアなど自由の国々に渡ることだった(上海は当時世界で唯一、ユダヤ難民たちをビザなしで受け入れている都市だった)。この地は、3月でも朝晩には氷点下20度を軽く下回る。難民たちは寒風吹きすさぶ原野にテントを張り満洲国に助けを求めていた。

 

 季一郎は、その惨状を知って唸った。「入れてやればいいじゃないか」。季一郎は呟つぶやくと同時に受け入れを自分1人で勝手に決めた。前年にハルビンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会に来賓として出席した季一郎は、ユダヤ人擁護の演説までやっている。しかし季一郎のユダヤ難民受け入れはユダヤ人への好意からだけではない。「困っているなら、それを助けるのが人間の生き方である。仁であり、義である」。こうして2万人ともいわれるユダヤ難民は、ビザなしで満洲国に入ることができた。季一郎は命じて、難民たちに食事を与え医療を施した。1特務機関長の季一郎の独断である。後にドイツから抗議が来て、関東軍参謀長・東條英機が尋問した。季一郎は、胸を張ってこう言い放った。

 

「私は日独間の親善と友好は希望する。しかし、日本国はドイツ国の属国ではないし、満洲国もまた日本国の属国ではない。すべからく対等の立場に立って、人道的な国策を全うすべきである」。そして続けた。「東條参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者イジメをすることを正しいと思われますか」。結局、季一郎は無罪放免となった。この時に季一郎がユダヤ難民を救出したオトポールからハルビンへの道は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後の難民たちの救出路にもなった。

 

 その後、季一郎はアッツ島玉砕の司令官になり、さらには北海道を護る第5方面軍司令官として、終戦後も侵略を続けるソ連軍に抵抗した。樺太・北千島では徹底して戦い、占守島ではソ連軍を完全撤退に追い込み、北海道へのソ連軍上陸を阻止した。戦後、これを根に持ったソ連は、季一郎を戦犯に指名しGHQに引き渡しを要求した。その時、ニューヨークに本部を置く世界ユダヤ協会が動いた。GHQに対して「樋口季一郎の救済」を求めたのだった。オトポール事件の恩返しである。季一郎は、無事にその人生を全うして昭和45年10月、82歳で逝去した。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』2025年4月号『東京大空襲と本土防空戦の真実』より

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