40代なのに「娘のような年の仲居さん」に手を出し、修羅場に… 妻に激怒された志賀直哉の「ゲス不倫」とは?
炎上とスキャンダルの歴史
「小説の神様」として名高い文豪・志賀直哉。彼はスランプに悩まされていた40歳ごろ、京都の祇園で出会った20歳ほどの仲居の女性に手を出していた。この浮気は妻にも発覚し、奈良へ引っ越しをさせられる修羅場にもなったが、志賀は奈良からはるばる京都へ通い、関係を続けていたという。「山科四部作」のモチーフとなったこの事件について見ていこう。
■20歳そこそこの仲居さんに手を出した「小説の神様」
大正・昭和の「文豪」志賀直哉といえば、「小説の神様」というキャッチコピーがつきまといます。しかし世間でいくら「神様」扱いを受けていたところで、その作家人生はしょっちゅうスランプに悩まされるものでした。しかも、アラフォーの志賀を数年間にわたって苦しめたスランプを、志賀は京都・祇園での「ゲス不倫」で突破していたのです。
お相手は祇園のお茶屋の「お清」という仲居さんでした。仲居といえば、ただの配膳係の女性なのですが、大正時代にはまだお客の要望と仲居本人の意識次第で、そして金銭次第で「関係」が生まれることもあったようです。
まるで江戸時代のような光景で驚いてしまいますが、さらに驚きなのは志賀直哉が「お清」のことを「醜い」と書きつつも、二十歳そこそこの彼女の若さに溺れてしまっていた事実です。
■妻は激怒、引っ越しをさせられたが、浮気はやめなかった
しかし、もともと秘密にしておこうと思っていた志賀の不倫は、さっそく妻の「郁子(志賀の実際の妻の名は康子)」にバレてしまいました。そして激怒した妻の言いなりとなった志賀は、千葉から京都に引っ越したばかりなのに奈良へと転居させられたようです。
それでも志賀は妻を騙して、奈良から遠路はるばる京都まで通うようになっていました。「お清」からはまったく特別に思われていないのに、志賀の心と身体は彼女を求めて奈良から京都に向かい続けます。そしてまだ例の女に会いに行っているという事実が再び妻にバレてしまい、物凄い修羅場となってしまったのです。
■不倫をテーマに短編『瑣事』を書き、発表
この不倫関係をテーマに、「小説の神様」志賀直哉の非常にゲスい内面が書き連ねられたのが、ここ何年ものスランプを打ち破った短編『瑣事(さじ)』でした。「つまらないこと」というような意味の短編ですが、何も書けない状態から、2時間ほどという猛烈な勢いで完成した作品で、志賀直哉にとってはたしかに一種のブレイクスルーであったと思われます。
志賀は彼の親友の里見弴と比べ、スキャンダルを書くことに慣れておらず、『瑣事』を発表する予定もありませんでしたが、いくら学習院出で父親が富豪の志賀直哉でも、何も書けない、稼げない日々が何年と続き、しかも引っ越しばかりしているのですから、貯金残高に不安が出てきたようです。結局、『瑣事』は発表されてしまいました。
それでも「雑誌社の人が原稿を取りに来た時、彼(=志賀)は『新聞広告はなるべく内容を暗示しないやうにして下さい』と云った」そうですから(『晩秋』)、なかなかつらい経験だったようです。しかし、「お清」としつこく付き合っているので妻に怒られ、「手切れ金を渡して別れてこい!」と命じられてしまったので、原稿料でちまちま稼ぐしかなくなったようですね。
■「奥さんに甘すぎる」と皮肉を言われ、気持ちが冷めていった
それでは金を突きつけられ、別れてくれといわれた仲居の「お清」はどんな反応を見せたのでしょうか。志賀は彼女に執着しているのは自分だけだと作品では明言していましたが、ふだんは無口な彼女の口からこぼれ出たのは「割が悪いわ」という言葉でした。
祇園では芸者だけでなく、仲居などにも「旦那」ができれば、それを祝い合うという習慣があって、「お清」も親しい芸者から祝福された後だったようです。「奥さんに甘すぎる」などと皮肉をいわれたりするうちに、志賀の「お清」に対する気持ちもフェードアウト。
そして、これらの「ゲス不倫」をまとめた全4篇の通称「山科四部作」(『山科の記憶』『痴情』『些事』『晩秋』)をきっかけに、「小説の神様」志賀直哉は深いスランプの底から徐々に浮上し、復活することができたのでした。めでたし、めでたし……とは素直にはいえませんが……。
画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)