中国史書が描いた「邪馬台国はこんな国」─所在地論争の元凶!?─【日本古代史ミステリー】
令和の定説はコレだ!古代史【研究最前線】
日本には記録がなく、中国の史書に頼ってしまう邪馬台国の歴史。そこにはどのような記述が残されているのだろうか?
■戦国時代だった倭国大乱の後、30の国が集まる邪馬台国連合に

模造「漢委奴国王」金印(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
弥生時代の日本列島は、小国が乱立していた。1世紀に成立した中国の歴史書である『漢書』の地理志には、倭人は100あまりの国に分立し、朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)に定期的に使節を送っていたと記されている。また、『後漢書』東夷伝(とういでん)には、57年に倭の奴国(なこく)の王が使いを後漢の洛陽(らくよう)へ遣し、光武帝(こうぶてい)から金印紫綬(きんいんしじゅ)を受けたとある。さらに、107年には倭国王の師升(すいしょう)らが奴隷107人を安帝に献上したことも記されている。
こうしたことから、当時の日本列島の倭は、北部九州の「クニ」を中心に中国の王朝へ遣使していたことが、中国側の史書によってわかるのである。
『後漢書』東夷伝には、さらに興味深いことが記されている。それは、2世紀の後半のこととして、倭国間で戦争があいつぎ、秩序のない状態が続いたとある。倭国大乱といわれるもので、これによると日本列島は戦国時代ということになる。『魏志』倭人伝にも倭が互いに争い、数千人が殺されたとある。その結果、卑弥呼を王に立てて、国々がようやくおさまった。
これが30ほどの国からなる邪馬台国連合であり、魏へ使節を派遣し、朝貢した。
■『魏志』倭人伝に記載された不明瞭な邪馬台国の位置
邪馬台国の位置についても『魏志』倭人伝は記載している。それによると、魏が朝鮮半島に置いた植民地である帯方郡からそれぞれの国までの距離・方角や国々の戸数などがみられるのであるが、これらを記載通りに追っていくと、北部九州へ上陸したあと、南下を続け九州南方の海にいきついてしまう。
そこで、従来の研究者たちは、この矛盾を解消するために、距離と方角のいずれかを誤りと考えた。すなわち、距離の記載を誤りとして実際はそれほど長くないとすると、邪馬台国は九州の内におさまることになる。一方、方角の記述で間違っており、南とあるのは、実は東であると考えると邪馬台国は畿内にあることになる。
こうして、北部九州説と畿内説の2説が誕生したのであるが、どちらも『魏志』倭人伝の一部を否定することから決定的要因に欠けており、論争が続いている。
『魏志』倭人伝には、邪馬台国の文化や社会についての記載もあり、考古学の成果との比較もなされているが、これも現在のところ、邪馬台国の位置を断定するまでにはいたっていない。
監修・文/瀧音能之