謎に満ちた日本古代史を大胆予想! 定型化された前方後円墳の広がり
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #089
3世紀半ばに纏向(まきむく)に突然出現した巨大な前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」の役割とは何だったのだろう? 未だ謎のベールに包まれている古代日本の世界を、心ゆくまで妄想してみよう!
■「空白の4世紀」の技術力とは?
さて、今回取り上げるのは「空白の四世紀」に広い範囲に伝播(でんぱ)した「定型化した前方後円墳」です。なぜ前方後円墳が普及したか、しかもなぜそれが定型化されているのかということを考えると、「当時最新の大土木工事を伴う古墳造りは開墾や治水にも応用が利く大きな魅力のある最新文化だったからだ」と思えます。では各地の小国が垂涎(すいぜん)の眼差しで見た「大和王権の卓越した最新大規模土木技術の魅力」をどう見せつけたのか? という疑問がわき上がります。
最新の工事道具や農工具を見せたからといって、そう簡単に大和王権に服属することはないでしょう。やはりそういう道具を使って実際に結果を見せることが必要だと思います。それは図に描いた通りのものを巨大化して実際に造って見せるということが、最も説得力を持つでしょう。
製図機材のない時代に、ほぼ相似形の巨大な前方後円墳を各地に造るには相当なスキルが必要です。板や土版、もしくは地面に描いた前方後円墳の縮小図を正確に拡大して築造するには高度な測量技術が必要でしょう。
箸墓古墳とほぼ相似形の「撥型(ばちがた)前方後円墳」が各地にいくつかみられます。こういった拡大縮小技術は、おそらく渡来人が持ち込んだのだろうと思いますが、そういった海外の最新技術や文化を大和王権は独占的に手中にしたのでしょう。
そしてその有益な先進文化を、各地にどう理解させるのかが重要です。現代であれば「見本市」で実物を見せるのが大きな効果を発揮します。「もしかすると、当時にもそういった場があったのではないだろうか?」と、例によって私の根拠のない妄想が膨らみました。
とすると、巨大な前方後円墳が突如出現する大和・纏向にある、最初期の箸墓の存在が引っ掛かります。「昼は人が造り、夜は神が造った。石を大坂山から人々が列をなして手渡しで運んだ」と意味不明な記述のある箸墓です。

箸墓古墳は、邪馬台国の女王卑弥呼の墓であるという説も存在している。
■纏向遺跡の調査・研究への期待
奈良県桜井市の纏向遺跡が全体でどれほどの広がりを持つのかは、これからの長い調査と研究にゆだねる以外にありませんが、これまでの調査でも面白いことが判明しています。
その中で私が最も興味を持つのは、ほかの遺跡に比べて外来土器が異常に多いということです。外来土器というのは纏向周辺以外の遠方の特徴を見せる土器のことで、特に東海地方の土器が多いという特徴があります。
ほかにも吉備地方や丹後地方の土器も多く、纏向には各方面から人々が大勢集まってきたようにみえるのです。私は、各地の小国から人が集まって纏向に大和王権を成立させたのだと思っていました。
しかしこうも考えられるのではないかという妄想がわき起こりました。
これまでに見たこともないような巨大な前方後円墳を平地に造るという大工事を、各地の小国から見学に来ていたのではないか? そしてその卓越した土木技術を習得するために、各地から派遣された若者たちが研修を受けていたのではないか? のちには土木以外にも円筒埴輪などの製作方法を学んだり、最新の土木工学を学んだりしていたのではないか?
とすると、箸墓古墳は誰か特定の人物を埋葬するために築造されたのではなく、土木工事の実習会場として造営されたのではなかったか? 後円部頂上にはおそらく竪穴土壙墓があるだろうが、誰も埋葬されていないのではないか?……などと過激な妄想にまで行きつきました(笑)。しかし一笑に付すだけの証拠もありません。真実はわからないのです。やはり、古墳調査の全面解禁に期待せざるを得ませんね!

纏向遺跡の碑。ここには古代史への手がかりが数多く残されている。 撮影:柏木宏之