便利屋のごとく酷使された駆逐艦が海戦では無類の強さを発揮した【べララベラ海戦 】
世界を驚愕させた日本海軍の至宝・駆逐艦の戦い【第5回】
昭和17年(1942)12月31日にガダルカナル島からの撤退が決定すると、ニュージョージア島がソロモン方面における日本軍の新たな防衛線に定められた。この島の西部ムンダには、ガダルカナル島での戦いのために、昭和17年12月中旬に飛行場が完成していたのだ。

左は日本軍の魚雷攻撃で、艦首が激しく損傷したウィーカー艦隊旗艦のセルフリッジ。右のオバノンは被雷したシャヴァリアを避けられず衝突し、艦首を大破した。夕雲の魚雷は1発で2隻の駆逐艦を大破させたことになる。
米軍は昭和18年(1943)7月4日、ニュージョージア島に上陸を開始。それから8月4日にムンダ飛行場放棄を決断するまで、日本軍は激しい肉弾戦を展開する。しかし補給の見込みがない守備隊は、コロンバンガラ島への撤退を具申し、認められた。
ところが米軍は、コロンバンガラ島の背後に浮かぶベララベラ島に上陸、挟撃する形を取った。こうした事態に陥り、日本軍司令部はコロンバンガラ島の放棄も決定。まずニュージョージア島の部隊が、8月30日までに大発と小型船を使いコロンバンガラ島に転進。そしてコロンバンガラ島に集結した1万2000の将兵を、チョイスル島経由でブーゲンビル島へ撤退させることにした。
コロンバンガラ島守備隊の撤退が完了した時、ベララベラ島では米軍に代わり増派されたニュージーランド軍の攻撃で、わずか600名ほどの日本軍は追い詰められていた。10月になり、ようやくべララベラ島の部隊をブーゲンビル島ブインへ撤退させることが決まる。
これだけ後回しにされたのは、南東方面艦隊が撤退作戦に消極的であったからだ。だが隷下の第八艦隊が押し切る形で、作戦が実行されることとなった。動員されたのは駆逐艦9隻と補助艦艇20隻、指揮官は第三水雷戦隊司令官の伊集院松治(いじゅういんまつじ)大佐である。この作戦に際し、伊集院大佐は軽巡洋艦「川内(せんだい)」から陽炎型(かげろうがた)駆逐艦「秋雲(あきぐも)」に移乗、代将旗を掲げた。
10月6日3時30分、まず輸送部隊となった駆逐艦3隻(文月/ふみづき、松風/まつかぜ、夕凪/ゆうなぎ)がラバウルを出航。続いて5時に伊集院大佐が率いる夜襲部隊の駆逐艦6隻(秋雲、風雲/かざぐも、夕雲/ゆうぐも、磯風/いそかぜ、時雨/しぐれ、五月雨/さみだれ)もラバウルを後にし、両部隊は16時、ブーゲンビル島北部で合流する。
それから夜襲部隊のうち「時雨」と「五月雨」が、先行している収容部隊に追いつくため、急ぎべララベラ島に向かった。島が近づいてくると、「時雨」が巡洋艦4隻、駆逐艦3隻が接近してくることを察知し、「秋雲」に報告した。さらに偵察機が放った照明弾により、2群の駆逐艦隊を確認する。
一方、米軍側も日本艦隊の動きを察知。第3艦隊のウィリアム・ハルゼー大将は直ちにフランク・R・ウォーカー大佐が率いる3隻の駆逐艦からなる、第4駆逐部隊を出撃させ迎撃体制を取った。「時雨」は、この部隊の戦力を過大に捉えてしまったのだ。
20時31分、ウォーカー部隊はレーダーで2隻の目標を捉えた。その4分後に「風雲」も「巡洋艦3隻発見」を報告。だが「秋雲」の司令部では「味方ではないか」という、疑問が呈されてしまう。そのため即座に戦闘体制をとることができなかった。だがこの疑問は、20時55分にウォーカー部隊からの先制攻撃が行われたことより、即座に否定された。こうして「第二次べララベラ海戦」と呼ばれる戦いの火蓋が切られた。
ウォーカー部隊から最初に激しい砲撃を受けた「夕雲」は、魚雷を8本発射した後、面舵をとり「秋雲」とともに砲撃を開始、だが直後から集中砲火を受け、瞬く間に火ダルマとなった。しかし「夕雲」が発射した魚雷が21時1分に「シャヴァリア」に命中。その後方を航行していた「オバノン」は、大破した「シャヴァリア」を避けきれず追突し、こちらも大破した。その間に「夕雲」にも魚雷が命中し、21時10分に沈没。
「時雨」と「五月雨」も8本ずつの魚雷を発射。そのうちの1本はウォーカー大佐が座乗する旗艦「セルフリッジ」に命中。艦首が大破させられたが、辛くも戦場を離脱した。
残された「シャヴァリア」と「オバノン」は、視界が悪くなってきたことに助けられ、日本軍がその後に放った魚雷が命中することはなかった。もし日本軍にレーダーがあれば、米軍は全滅させられていたかも知れない。結局、瀕死の「シャヴァリア」は、途中で僚艦の魚雷により処分された。
結果、ベララベラ島沖で起こった日米両艦隊の海戦は、双方とも駆逐艦1隻が沈没。だが残りの2隻を大破させた上、ベララベラ島守備隊を無事収容できたことから、日本軍の作戦が成功したことになる。

伊集院松治大佐は、日露戦争の日本海海戦で威力を発揮した、伊集院信管を開発した伊集院五郎元帥の長男。キャリアの多くを駆逐艦乗りとして過ごしている。最期は第1護衛船団司令官で、乗艦「壱岐」が撃沈され戦死。海軍中将に特別進級している。