徳川家康も大好きだった「鷹狩」とはどんなもの? 猟犬 or 鷹の餌だった犬たち
日本人と愛犬の歴史 #06
織田信長や徳川家康が好んだとされる「鷹狩(たかがり)」。大河ドラマ『どうする家康』でも、度々鷹狩のシーンが登場した。さて、古来日本で愛され、多くの武将が嗜んだ鷹狩には「犬」の存在が欠かせないことをご存知だろうか。今回は、鷹狩の歴史を紐解くとともに、知られざる犬たちの物語をご紹介しよう。

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■古来愛されてきた「鷹狩」と猟のパートナーとしての犬
猛禽類(もうきんるい)を放って狩猟を行う鷹狩(たかがり)は、時代劇によく出てくる。織田信長や徳川家康の鷹狩好きは有名だし、大河ドラマにもしばしば鷹狩の場面が出てくる。しかし、鷹狩に使う犬に着目した資料は少なく、そのため描写されることもあまりない。だが、鷹狩に犬は必須だった。獲物の居場所を突き止め、狩りができるところまで追い出す役目を担っていたからだ。
鷹狩については、すでに『日本書紀』に記されている。仁徳(にんとく)天皇が、百済(くだら/ひゃくさい)の王族出身である酒君(さけのきみ)から飼い慣らした鷹を献上され、それを使って雉(きじ)を獲ったのである。
過去に出土した埴輪(はにわ)の中には、鷹匠(たかじょう)や鷹と思われるものもある。谷口研語は『犬の日本史』(吉川弘文館)の中で、「埴輪の中には首輪や鈴をつけた犬のものがあるが、これらはおそらく鷹狩用の犬なのであろう」と述べている。鈴は、藪(やぶ)の中に入った犬の居場所を知るためにつけられた。
律令(りつりょう)制度が整うと、兵部省(ひょうぶしょう/つわもののつかさ)の中に主鷹司(しゅようし)が置かれた。鷹と犬の訓練が仕事だった。しかし仏教が伝来すると、次第に殺生禁断の観念が広まっていく。鷹狩を好む天皇もいたが、公に殺生を認めるわけにはいかない。主鷹司は縮小され、朝廷の鷹狩は次第に形式的なものになっていった。それでも、鷹狩は地方の役人たちによって行われ、禁止令が度々出された。これを公に復活させたのが、台頭してきた武士団である。鷹狩は武士の美意識に合致したのだろう。多くの戦国大名が鷹狩にいそしんだ。そして優秀な犬を求めた。
秋田藩の初代藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、優秀な鷹犬(ようけん)を入手するため、鷹匠を京都の宇治にまで派遣している。鷹犬は、高度な訓練を経て初めて使えるようになる。そういう犬は「御犬(おいぬ)」と呼ばれて大切にされた。
山口藩の毛利輝元(もうりてるもと)は、鷹犬を守るために規定を定めている。「鈴、札付けたる犬、屋内に入り候とも、撃ち殺す事、容捨(ようしゃ)すべく候。もし無体に殺し候幅、過料に申し付けるべき事」(『毛利家文書』より)
山口藩では鷹犬を含む猟犬には鈴か札をつけることになっており、それ以外の犬は飼ってはならない決まりになっていた。そして鈴か札をつけた犬は、屋敷内に入ってきても殺してはならないとされていたのである。
下って江戸時代になると鷹犬は、雑司ヶ谷(ぞうしがや)などにあった御鷹部屋(おたかべや)と呼ばれる広い飼育場や訓練場で飼われるようになった。たまに郊外に出る時は、通り過ぎる村や宿にあらかじめ「御犬通行」が知らされる。そして送り継ぎが滞りなく行われるよう、馬や人足が手配された。また、村の犬などがちょっかいを出さないよう、追い払う役まであったという。こういう体制が整っていたからこそ、のちに犬の伊勢参りが始まったのだろう。
■猟犬か鷹の餌か……犠牲になった犬たちと庶民の重荷
甲斐犬愛護会創立者の一人だった小林承吉は、『日本犬大観』(誠文堂新光社)に寄せた「甲斐小型犬」の中で、雑司ヶ谷御鷹部屋の鷹匠だった中田家に伝わる古文書の一節を紹介している。
「一、甲州巨摩郡(中略)、足倉村、同平林村、右村々猟師格別多く宜犬御座趣に候」。つまり、甲州の足倉村や平林村には漁師が多く、いい犬もいるというのである。これは弘化4年(1848)、猟犬や優良犬を調査した時のものである。鷹犬になる優秀な犬を求めて、鷹匠たちが各地を調査していたことがわかる。
しかし、いわゆる“エリート犬”とされた犬がこのように大事にされた一方で、その辺を歩き回って軒下などで暮らしていた普通の犬は犠牲になった。下手すると鷹の餌(えさ)にされてしまうことさえあった。これは昔からのことで、『徒然草』にもそういう話が出てくる。
また、伊達家の家法である『塵介集』にはこういう規定がある。「一、犬うち候事、鷹の餌に候幅、越度有べからざるなり」。鷹の餌用として犬を殺すことは罪に問わないというのである。
これが江戸時代になると、鷹の餌にする犬の確保が重要になってくる。大名が餌にするために、農民に犬の飼育を強要するようになったのだ。『犬の日本史』(吉川弘文館)によると、たとえば会津藩では慶安4年(1651)、領内の犬の数を調査している。
その結果は、犬の総数が2687頭で、そのうち鷹の餌になれそうな犬は438頭、長じて鷹犬になれそうな子犬は193頭、餌になる子犬の親になれそうな雄犬は182頭、雌犬363頭、計1166頭は生かしておくというものだった。残りの「悪犬」1521頭をどうするかが問題になっている。
実は、犬の飼養が農民には大きな負担になっていたのだ。農民から奉行に度々、「鷹犬にならない犬はみんな殺したい」という申し出が寄せられていた。この時は藩主にまで話が届き、協議の末、それはあまりにも不憫ということで殺さないことになった。実際、鷹犬にはならなくても猟犬や番犬になる犬もいるし、飼い犬として可愛がられている犬もいたからである。しかし、翌年に村々から再び「餌にならない犬まで飼養するのは負担だ」という訴えがあった。結局、各自に任せるということになったのである。
大名たちがこのような道楽というか、趣味に打ち込めたのも江戸の平和があってこそである。しかし、付き合わされる農民たちは大変だった。奉行は双方の板挟みになって苦労したことだろう。『犬と鷹の江戸時代』(吉川弘文館)によれば、大名による鷹狩には側近や家来たちが駆り出され、今でいうゴルフコンペのようになっていたらしい。そして、農民と犬が重い負担を強いられたわけだ。これも平和だった江戸時代の一面である。