秀吉に切腹させられたと噂が立った信雄
史記から読む徳川家康㉛
8月13日(日)放送の『どうする家康』第31回「史上最大の決戦」では、織田家の一家臣という立場を脱し、天下人への道を加速させる羽柴秀吉(はしばひでよし/ムロツヨシ)の姿が描かれた。打倒・秀吉を心に秘める徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)は、亡き同盟相手・織田信長(おだのぶなが)の次男である信雄(のぶかつ/浜野謙太)から援助を求められ、秀吉と対峙する決意を固めたのだった。
織田家を排除し天下人を目指す羽柴秀吉

愛知県小牧市に立つ小牧山城。かつて織田信長が美濃攻めの際に拠点として築城した(一説には居城だったとも)。小牧・長久手の戦いの際に徳川家康が本陣とした場所としても知られる。江戸時代に入ると、家康ゆかりの地として入山が制限され、徳川家による手厚い保護を受けた。
織田信長の次男・信雄を擁して柴田勝家(しばたかついえ)との戦いに勝利した羽柴秀吉は、自身が天下人となるべく、着実に足元を固めていた。
戦勝を祝いに使者として派遣された石川数正(いしかわかずまさ/松重豊)は、秀吉の人間力を目の当たりにする。来訪を歓迎する秀吉の様子は、すべてが芝居のようであり、心のままに振る舞っているようであり、数正は得体の知れないものを感じた、と主君の徳川家康に報告した。
やがて秀吉は、信雄を権力から遠ざけるようになる。織田家の重臣・勝家を滅ぼすためだけに利用されたことを感じ取った信雄は、父・信長の同盟者であった家康に、織田家の権力を奪い去った秀吉を討伐するため協力を訴えた。
家康は家臣それぞれの意見を聞き、家中の結束を固めた上で、信雄とともに秀吉と戦う意思を鮮明にした。
果たして、信雄のもとにいた、秀吉に内通する三家老を斬ったことをきっかけに決戦の火蓋は切られた。
10万と目される秀吉の軍勢を相手に、家康は一歩も引くことなく、小牧山に布陣した。対する秀吉は犬山城を拠点に着陣。こうして、両軍は相まみえることとなったのだった。
信雄は信長の一周忌後に政権から排除された
1583(天正11)年4月25日、柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、前田利家(まえだとしいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)を服属させた上で加賀国(現在の石川県の一部)に入り、北陸を平定した(「毛利家文書」「大友家文書録」)。
戦勝を祝うため、徳川家康は家臣の石川数正を秀吉の許(もと)に派遣している。同年5月21日のことで、大名物の茶入・初花肩衝(はつはなかたつき)を戦勝祝いとして贈っている(『家忠日記』『武徳大成記』)。
なお、同年5月から7月にかけて、三河国(現在の愛知県東部)で大雨が発生。50年来といわれる洪水の被害に見舞われており、北条氏との盟約に基づいた、家康の次女・督姫(とくひめ)の輿入(こしい)れが延期されている(『家忠日記』)。
同年8月、諸将に所領を分与するなど、秀吉は織田政権での存在感を強めていた(「浅野家文書」)。同月15日には、延期されていた督姫と北条氏直(ほうじょううじなお)との祝言を執り行ない、家康は北条氏との同盟強化に努めている(『名将之消息録』『家忠日記』「北条家文書」)。
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